2008年05月29日

霊山寺 奥の院の弁天さま

霊山寺のバラ庭園を楽しんで一息。
バラ庭園の奥に「プリエール」と言う喫茶店があります。
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ローズティーや、ローズコーヒー、ケーキセット、バラのアイスクリームなんかもあります。
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私は、ローズティーのケーキセットをいただきました。600円なり。
ローズティー、美味しかったです。ケーキもバラの花びらが乗せてあって、バラのムースなのでしょうか。バラのお庭を拝見しながらバラの香に包まれて、バラのケーキセットをいただく至福の時です。?????????i?V?????j

ryosenji12.jpgたくさん楽しませていただいたので、本堂へご本尊様にお礼に行ってきましょう。途中に薬師湯があります。1300年の歴史を持つ薬草湯だそうで、色とりどりのバラを目で楽しんで香で楽しんで舌で楽しんで、薬草のお湯につかって体を休めて、上がってまた、お茶やお食事を楽しんでって、全く至れり尽くせりのお寺ですねぇ。???[???i?????????j

ryosenji13.jpg本堂は国宝です。聖武天皇の勅命で建立されたので、菊のご紋が掛けられています。ご本尊は薬師如来で脇侍に日光菩薩、月光菩薩です。足を傷めてから正座が辛いのですが、本堂には椅子が用意してあって、嬉しかったです。膝を傷められた高齢の方にも親切ですね。

ryosenji14.jpg本堂から1キロほど登っていきますと、奥の院があります。ここの何とも神秘的な雰囲気が大好きなんです。弁才天と七福神がお祀りしてあります。豊かな水が流れていて、ここにたどり着く間にも川のせせらぎが聞こえています。水の恵は龍神さんであり弁天さんでもあるんですね。

ryosenji15.jpgやっぱりここにもご神木。真直ぐ伸びた大きな杉の木です。東大寺の開眼供養で来日されたインドのお坊様、菩提僊那が「ここはインドの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ているね」とおっしゃった所から霊山寺と名づけられたそうな。確かに車がビュンビュン行きかう奈良市内ですが、ここは現代でも霊験あらたかな感じがします。

霊山寺は、この他にもゴルフの練習なんかも出来ちゃいます。
現代人の疲れた心身をリフレッシュする場でもあり、何だかリラクゼーションセンターみたいなお寺です。人々の心と体を癒す場であると言えば今も昔もお寺の役目は変わらないのかもしれませんけどね。
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2008年05月20日

近つ飛鳥博物館 −河内の大型群集墳について−

大阪府なんですけど、限りなく奈良っぽい所、南河内郡河南町にあります「近つ飛鳥博物館」に行ってきました。
博物館の北にあります太子町には聖徳太子のお墓とされている所や、お父さんの用明天皇の御陵、推古天皇と竹田皇子の合葬墓などがあり、ここは何となく蘇我氏っぽい、飛鳥臭ぷんぷんするような大阪府です。

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近つ飛鳥博物館は安藤忠雄さん設計の建物です。上から見ると前方後円墳で、この塔は「黄泉の塔」だそうです。周りは、近つ飛鳥風土記の丘と言って一須賀(いちすか)古墳群が保存してあります。

奈良のあちこちにある前方後円墳ですが、では古墳群って?
古墳時代も最後の方になると古墳がたくさん集まって群集墳と言う形を取るようになります。
白石太一郎先生のお話で「河内の大型群集墳について −高安・平尾山・一須賀古墳群−」を聴いてきました。

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tikatsu3.jpgこのような形で復元して保存されている古墳が風土記の丘にはいくつもあります。急な上り坂や、緩やかな傾斜地の整備された公園内を歩くと、あちこちにこのような石室が見られます。出土した副葬品から、渡来人、渡来人の子孫のお墓と考えられています。

tikatsu4.jpg河内と呼ばれる地域に大型の群集墳がいくつかあります。八尾市にあります「高安千塚古墳群」柏原市にあります「平尾山千塚古墳群」そしてこの博物館の周辺にあります「一須賀古墳群」です。

高安千塚古墳群
高安山の西麓にある古墳群で白石先生は山畑支群、服部川支群、郡川支群を合わせた150基(実際には200〜300基あったであろう)を高安千塚古墳群としてお話されました。
特徴として
・6世紀初頭から(5世紀終の可能性もあり)6世紀終りくらいまで造られた古墳群です。(一部7世紀のものも、きわめて少ないがあり)
・前方後円墳は1つもなく、円墳のみ。
・ほとんどすべて横穴式石室。しかも前方後円墳に劣らないほど大きな規模の横穴式石室。
・石室のタイプなどからT期、U期、V期と造られた年代が進んでいく。

平尾山千塚古墳群
・高安千塚古墳群より新しい時期、6世紀前葉か中葉頃から7世紀になっても造られ続ける。
・だんだん小型化していき、8世紀の火葬に移る頃まで繋がっていく。
・前方後円墳はなく円墳のみ。
・大部分は横穴式石室で、一部横口式石室。
・高安千塚古墳群のU期のタイプの石室から、7世紀前葉から中葉の頃の羨道と玄室の区別がほとんどないような石室のタイプW期まで形を変えて時代が進む。

一須賀古墳群
・6世紀初頭(一部5世紀終)から造営され、6世紀前半から後半にかけて、高安千塚古墳群と平尾山千塚古墳群の中間くらいの時期に営まれた古墳群。
・山の尾根に点々と造られる。
・前方後円墳はなく円墳(もしかして方墳も?)
・副葬品として、たくさんのミニチュア炊飯具の埴輪(朝鮮半島からの渡来説 水野正好先生)武器が少なく装身具(耳飾)が多い。朝廷に仕えていた人々であろう。
・決められた区画の中で3〜4代に渡って古墳が造られていく。
その決められた区画一家族で3〜4代に渡る古墳、その集まりが群集墳であるという 広瀬和雄先生の説

日本列島にある古墳群を二つのタイプに分けると
以上のような河内の大型群集墳に見られるようなタイプの古墳群を
一須賀古墳群型:独立した家族の集まり。夫婦合葬の可能性が高い。

奈良県御所市石光山古墳群のような前方後円墳を含むタイプの古墳群を
石光山古墳群型
・いくつかの前方後円墳を含む。一つの氏の族長が小高い丘陵地に前方後円墳を造りその周りに首長に次ぐ者や有力な家族の墓がある。
・有力な集団の中で家族の独立性は認められない。
・横穴式石室は少ない。6世紀の後半になって一部の大きな古墳において、横穴式石室が見られる。
・新塚千塚古墳群も同じタイプの古墳群。(横穴式石室が少ない。)
・在来型の倭人型古墳群

以上のようなお話でした。白石先生のお話は2回目。水野正好先生や広瀬和雄先生の説を紹介されながらのお話、面白かったです。
近つ飛鳥博物館は大阪府の財政建て直しで橋元知事が、がんばっておられ、経費も削減される中、素晴らしい展示と講演を開いておられます。考古学ファンは必見ですね。出来れば弥生文化博物館も残して欲しいのですが、橋元さんには同じようなものに見えるのでしょうねぇ。?????????`?i?????????j

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tikatsu6.jpg高安千塚古墳群の詳しい調査は八尾市教育委員会の先生で調査された先生がいらっしゃるそうです。(お名前失念、すみません。)興味のある方は八尾市教育委員会に問い合わせると資料が入手できるかもしれません。

今回は講演を聞く目的もあり、展示品や風土記の丘を見て回る時間があまりなかったので、また訪れてじっくり見たい博物館です。音声サービスが無料なのが嬉しいです。
入館料 大人300円 
    大学生・高校生・65歳以上200円
    中学生以下無料

近鉄 喜志駅から 
金剛バス 阪南ネオポリス行き 阪南ネオポリス下車 運賃260円

近つ飛鳥博物館はここ
posted by charon(amonohi) at 10:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

不退寺 今月は業平忌

今月5月28日は在原業平がお亡くなりになった日、業平忌がとり行われます。ちょうど秘宝特別展も開催されていますので行ってきました。

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本堂は重要文化財でご本尊の観音様は、一つのお顔と2本の腕を持つ人に近い姿の聖観音です。両耳の所にリボンをつけた観音様で、できたときの彩色の鮮やかさが偲ばれます。ぽっちゃりされてますね。???[???i?????????j
もしかして業平さん好みに作られたのでしょうか。

hutaiji2.jpgお歌が苦手で恋愛も今ひとつ興味のない私ですが、在原業平が開いたとされるお寺に来ました。きれいです。以前にも来たことがあるのですが、その時も5月でカキツバタの花が美しい季節でした。


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  ら衣
  つつなれにし
  ましあれば
  るばるきぬる
  びをしぞ思ふ

「か・き・つ・ば・た」の5文字を歌に読み込めといわれて業平が作ったとされる歌です。

hutaiji4.jpgちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは

おなじみの歌の碑です。季節が違いますが、紅葉の落ち葉が竜田川の水面にたくさん浮かんで美しい様を歌っていますが、この時代の竜田川は実は、大和川?

hutaiji3.jpgおほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの

多くの人が月を褒めるように褒めたくないなぁ。だって月が積み重なると、年とっちゃうんだもぉん。
っていう業平、晩年の歌です。

以前に来た時も思ったのですが、女性の参拝者が多いような気がします。それも「伊勢物語を読む会」とか「源氏物語を読む会」とかに入っておられるような感じで、ちょっと物思いにふけるような様子のお一人様。又は2、3人のお友達同士でといった感じの方達。

「奈良県を掘る会」みたいな私には不釣合いかな?と思ったらexclamation

hutaiji6.jpgそんな私にもピッタリなものがありました。石棺です。平塚古墳から幕末に出土したものらしくて、平塚古墳は、昭和43年国道24号線バイパス工事に伴う発掘調査の時に奈良時代遺構下からわたった古墳で今はありません。平城宮を作る時にも、いくつか古墳が潰されています。

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やはり、お寺の池には亀さん。
あっexclamation 何だかここのお寺の亀さん、男前。
いや美女かもしれませんが。
つやつやで綺麗な亀さんです。
「ようこそおこし。私は、この寺の業平カメじゃ。」

不退寺はここ
posted by charon(amonohi) at 23:56| Comment(4) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年05月13日

ここも花のお寺 船宿寺

奈良のお寺はお花を丹精されているお寺が多くて、長谷寺の他にも生き生きしたお花を楽しめるお寺が多くあります。そんな花のお寺として有名なお寺、船宿寺を訪れました。

ブログを書いている日にちより少し前になってしまい、今頃はつつじは終わっているでしょうけれど、次々にお花を楽しめます。

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5月8日の撮影です。そろそろつつじも終りかな?という感じでしたが、大きな平戸つつじがたくさんあり、じゅうぶん楽しめました。???[???i?????????j

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「邪馬台国はどこだ!!」とばかり考えていると、つい山の辺の道近辺ばかりに目が行ってしまいがちですが、御所市のある葛城の里は日本書紀で言う神武天皇から後の何代かの天皇の宮があったとされる里です。

欠史八代の実在性は疑われていますし、ましてや宮があったなんて・・・と思われますが、日本書紀がここまでこだわった葛城の里、何かあったに違いない。崇神天皇以前に大和地方に権力を持っていた何らかの勢力の後では・・・? 葛城王朝などという説を立てる人もあります。
で、現代の葛城の里は、とってもの〜〜んびりした里でした。
自転車で前を横切る時も「ふ〜んわり」軽く会釈して横切られ、こちらも何だかふ〜んわりした気分になります。
奈良市内も街なかだと、サッと自転車が前を横切ったりして、ビックリする事も多いので何だか幸せでした。
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大手毬が満開でとても大きな木で見事でした。この日は見ごろな感じで、何人もの人が手持ちのカメラで思い思いに撮影されていました。



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大きな平戸つつじより、さらに大きな大手毬の木、圧倒されましたが、一つ一つの花、一つ一つの房は可憐です。ああ、いじらしい????????

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奥に石楠花の森がありましたが、8日の時点ではほぼ終わりといった感じでした。

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来年もまた、きれいな花を咲かせてくださいね。

船宿寺へは近鉄御所駅からバスで10分ほど。運賃は370円。
1時間に1本なので奈良交通のサイトで時刻表を確認して出かけられるのが良いでしょう。お車利用の方は、もちろん駐車場もありましたよ。

船宿寺のある御所市五百家の「五百家」は「いうか」と読みます。

船宿寺はここ
posted by charon(amonohi) at 10:07| Comment(8) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年05月10日

長谷寺 古典文学の巻

牡丹の花で彩られた長谷寺でしたが、長谷寺の境内には、いろいろと古典文学好きな人にはうれしい場所が点在しております。

実は高校時代、古典は苦手でした。と言うか、たいへん興味があったのですが、教えてくださった先生が、とっても難しい試験問題を出す先生でして、しかもその先生は高校三年間ずっと担任が持ち上がりで・・・。その先生のテストの結果は、いつも「いずこも同じ秋の夕暮れ」なのでした?????????`?i?????????j

まっかっかっか空の色〜〜みんなのお顔もまっかっか????????

・・・先生、お元気でしょうか。もし偶然通りすがりにこのブログを発見しても「あんたええ加減にしなさいよexclamation何書いてんのホンマに」とかコメント投稿しないでくださいね。

hasedera11.jpgそんなわけで、古典が苦手だった上に、恋愛も苦手だった・・・と言いますか、興味がなかった高校時代の私には『「源氏物語」なんてなんだんねん』と思えるばかりでした。そうそう、「ギタリストが何であんなに神がかった演奏が出来るのだろう」とか「どうやったらあんな曲の組み立てになるのん」とか、そんなことばかり考えている子でしたから。

写真は「二もとの杉」という源氏物語に登場する夕顔のお嬢さん、玉鬘が、お母さんの夕顔の侍女だった右近と再会した場所。
といっても小説なので、作者の紫式部さんもこの場所においでになられたことがあって、「よし、この場所を使おう」と思ったのでしょうかね。

  
二もとの杉のたちとを訪ねずば
       古川の辺に君をみましや 嬉しき瀬にも

近くに初瀬川が流れています。

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↑藤原定家塚・俊成碑  
歌人・・・そんなわけで、私、お歌も苦手です。????????


hasedera13.jpg紀貫之さんが愛した梅の木です。土佐日記・・・、日記は好きです。???[???i?????????j →
このブログも細胞分裂しようかしらと思案中なくらいです。
ここは、奈良関係の記事を書くとして、AFPBB News の記事は別ブログに書くことにしようかと・・・。どこかでamenohi に似た文体のブログを見つけたらピンときて、そっとしておいて下さいまし。

Seesaa さんは利用料完全無料で、テキスト容量無制限、1つのアカウントで100までブログが持てますから。
いつもお世話になっていますので、広告してみました?????????i?V?????j

hasedera14.jpgとても良いお天気の日で、この日も亀さん達の甲羅干しでにぎわっていました。そうだ、去年も今頃? おふさ観音にバラを見に行った時、亀池にたくさんの亀さんたちが甲羅干ししていましたっけ。あれから1年、早いものです。
posted by charon(amonohi) at 18:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

長谷寺 ぼたんまつり

奈良のお寺はお花を丹精されて育てられる寺が多いですが、四季を通していつも何か咲いている花のお寺に長谷寺があります。

ちょうど「ぼたんまつり」の頃なので行ってきました。

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以前に訪れたのは独身の頃、懐かしい仁王門です。近鉄長谷寺の駅からここまで、少し歩きますが、参道の両側に並ぶお店が今も変わらずありました。とりわけ「草もち」のお店は前に買ったところが今もあり、あんこ物に目がない私は、やっぱり買ってしまいました。美味しい〜???[???i?????????j

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仁王門とその先、ずっと伸びている石段、登廊は重要文化財に指定されています。緩やかな登りなので割と楽に登っていけます。

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今の季節は、登廊の両脇にはぼたんが出迎えてくれます。GWの終りにはそろそろぼたんも終わりかけていました。
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国宝の本堂、外舞台から望む五重塔はこの寺のたくさんあるビュースポットの一つです。紅葉の時も美しいですが、新緑の中の五重塔も美しいです。

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そろそろ終わりかけのぼたんですが、つつじと咲き競うように見ごろを迎えている株もありました。

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黄色いのや

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白いのや

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長谷寺といえば "ぼたん" 。 唐の馬頭夫人が献木したのだそうで、お薬でもあります。昔、中国の国花でしたが、再び中国の国花となるでしょうか。

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信貴山朝護孫子寺にお参りした時も運良く読経タイムと重なって、景色を見ながら、お経を聞かせていただいたのですが、今回、長谷寺の本堂に入って、ご本尊の大きな観音様にお会いした時もラッキーな事に読経タイム???[???i?????????j

10メートルはあるでしょう大きな金ぴかの観音様の前に来ると見据えられるような感じになるのです。金ぴかといっても、薄暗い本堂の中で、ほのかに輝くといった感じで、それが何ともきれいです。
観音様を拝見しながら聞くお経。感動ものでした。しばらくその場を動きたくありませんでした。

同じく本堂に雨宝童子立像(うほうどうじりゅうぞう)がありますが、天照大神の化身だそうで、ここにもありました。神仏習合exclamation

真言宗豊山派総本山 西国観音霊場第八番 長谷寺はここ
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2008年05月01日

水谷神社

春日大社の境内を森林浴を兼ねて散策していますと、春日大社の摂社、水谷神社(みずやじんじゃ)があります。
素盞鳴命、大巳貴命(おおなむちノみこと)、奇稲田姫命が祭神で疫病を鎮めてくださる神様です。先日行ってきました狭井神社と同じく鎮花祭が行われています。

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神社の柵にもたれかかるようにと言いますか、強引にと言いますか、見事な巨木はイブキ(ビャクシン)の木です。
mizuya2.jpg樹齢はどのくらいの木なんでしょうか。中は空洞になっていて、空洞の中に杉の木が生えています。イブキが杉の木を抱き込むような形になっています。かぶりもの杉の木みたいです。?????????i?????U?????j かぶりものキューピーとか、かぶりものキティちゃんとかそんな感じ。杉の木が「私、イブキよ」ってな感じです。

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この方向から見ると、わかるのでしょうけど、私にはどこからどこが杉の木だかイブキだかわかりませんでした。長い年月の間にすっかり神様が宿っているような風格がありました。

私の子宝はもういいですから、鳥インフルエンザとか新しい疫病から日本人を守ってください。日本人の知恵で乗り越えることが出来ますように。

水谷神社はここ
posted by charon(amonohi) at 11:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年04月24日

久米寺

近鉄橿原神宮前駅を西口へ下車して、さほど遠くない所に久米寺があります。聖徳太子の弟で来目皇子が建立したとか、久米仙人が建立したとか詳細はよくわかっていませんが、つつじや紫陽花がきれいなお寺で有名です。
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久米仙人といえば神通力で空を飛んでいたところ、川で洗濯をしているお嬢さんの白い美しいおみ足に見とれて空から落ちてしまい、そのお嬢さんと一緒になったという伝説の久米仙人ですが、境内にある久米仙人の石像もどことなくユーモラスな表情です。???[???i?????????j

このお寺は下の病気の平癒に良いと聞きました。それで、ここ数年、母が腰から下の病気に立て続けにかかり、そのつど入退院を繰り返して難儀しましたが、ちょうど今、どの病気も一段落付いて桜の良い季節を苦しむことなく迎えることができたので「これからも母の腰から下をお守りください」とお願いに。

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江戸時代に京都の仁和寺から移築された多宝塔。
重要文化財です。


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境内は自由に入れますが、本堂に拝観料が要ると思います。時間が無かったので次に紫陽花の季節にご本尊のお薬師様を拝見してみようと思います。6月から7月にかけての紫陽花の季節は紫陽花が見事なお寺です。紫陽花園に入園料が要りますが、必見。

紫陽花に季節にはまだ少し間がありますが、4月下旬からのゴールデンウィークには境内につつじの花が咲き始める頃だと思います。
5月3日には二十五菩薩の練供養も行われます。

久米寺はここ
posted by charon(amonohi) at 15:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

狭井神社(さいじんじゃ)

大神神社の摂社、狭井神社が北側にあります。病気を鎮めてくれる神様でお参りしました。

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鳥居をくぐって左手に赤いお社と「鎮女池(しじめいけ)」があり、熱心に手をかざして念じていらっしゃるご婦人達が・・・。何なんでしょう。どうやら弁天様がお祀りしてあるようです。

近くに三島由紀夫が大神神社に残した「清明」の字を石碑に刻んでありました。まだ新しい石碑ですね。

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苔むした桧皮葺の屋根に木漏れ日がキラキラ美しい拝殿です。拝殿の右前に三輪山への登山口があります。狭井神社で申し込みをするとタスキを掛けてもらって、お祓いしてもらってここから入山できます。入山の心得が書いてあります。

拝殿の左側を奥へ行くと「薬井戸」がありご神水が湧いています。
万病に効くそうなのでいただきました。
口当たりが良くて、クセが無くて、スーッと身体に馴染む感じのお水です。

お天気の良い日に久しぶりに気持ちよく歩いたせいでしょうか、ご神水のお陰でしょうか、ここ数日の耳鳴りが無くなりました。
posted by charon(amonohi) at 21:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

大神神社(おおみわじんじゃ)

お休みになると、しょっちゅう山の辺の道を散策したのはまだ奈良に住むようになって間もない頃の事で、また歩きたいなぁと思いながら最近ではご無沙汰していました。

午後からは曇り空も晴れ、気温も上がるでしょうと言う事で、大神神社に行ってきました。

卵とワンカップ持って「みぃーさん」参り?h?????n?[?g

春日大社は赤い神社さん、三輪明神は黒い神社さん、そんなイメージです。どちらも好きな神社さんです。

haiden.jpgご神体は三輪山なので本殿はありません。この拝殿越しに三輪山を拝みます。徳川四代将軍家綱が再建したたいへん美しい拝殿です。平成になって解体工事がされていると思います。以前訪れた時、この美しい姿を見られなかったことがありました。お寺の仏像に見とれて何時間もそこに居たい気分になる事がありますが、大神神社ではこの優美な拝殿の前を動きたくなくなります。なんと言いますかこの屋根の曲線とか反り具合とかアールな感じが・・・た、たまりません。やっぱり神社さんは桧皮葺が、すっき〜〜?n?[?g?????i?????n?[?g?j

haiden2.jpg左画像は祈祷殿です。 「平成の大造営」事業で、平成9年に竣功しています。拝殿と同じく美しいと思いますが、やはり拝殿の優美さには及びません。
日曜日のとてもよく晴れた日で、たくさんの人が参拝に訪れていました。にぎわう境内のどの人もとても幸せそうに見えます。
特に赤ちゃんのお宮参りに訪れたご家族連れは本当にキラキラと輝いて幸せそう。きれいな着物を掛けてもらった赤ちゃんを大事そうに抱いたお母さんやおばあさんを囲むようにお父さん、おじいさん、赤ちゃんの兄弟姉妹・・・。雨の日が続いたからでしょうか「良いお天気になってよかった」と言う声をよく聞きました。この赤ちゃんがもし将来、人の道を踏み外しそうになったら、このシーンをそのまま蘇らせて見せてあげたいです。「あなたが生まれて来て皆がこんなに幸せでした」と。

大和国一之宮三輪明神大神神社

大和国一之宮三輪明神大神神社はここ
posted by charon(amonohi) at 21:26| Comment(8) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年04月14日

薬師寺 玄奘三蔵院伽藍 大唐西域壁画

ここのところ春の天候不良でなかなかお天気の良い日がなかったのですが、午後の晴れ間ののぞいた頃を見計らって薬師寺さんに行ってきました。
前回は大講堂、金堂などがある白鳳伽藍を載せましたが、今回は玄奘三蔵院伽藍の方へ。

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法相宗の始祖、玄奘三蔵のご頂骨(頭のお骨の1/14だそうです)を真身舎利として奉安してある玄奘三蔵のお墓と呼べる所です。   玄奘塔↓
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玄奘塔の北側に大唐西域壁画殿があり、そこに平山郁夫画伯が30年の歳月をかけて完成された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」がお祀りしてあります。
ちょうど今、春の大唐西域壁画殿の特別公開(3月20日〜6月15日)でした。

ガラスの向こうに描かれたシルクロードの風景、美しいです。
天上はラピスラズリで満点の星空が描かれています。床は砂漠の砂の色。玄奘三蔵院では、この絵がご本尊です。右の天には太陽、左の天には月。仏様はありませんが、日光菩薩、月光菩薩をあらわすそうです。

広い広い中国の風景。遠い昔に玄奘三蔵が苦労して旅をした時に、確かにご覧になった風景。素晴らしいですよ。

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↑玄奘三蔵院伽藍から見た白鳳伽藍


中国が抱えている今の困難を、昔の偉大なご先祖様たちに恥じないように、人の本当の幸せを考えるような形で乗り越えますように。
胡 錦濤さんや、中国共産党が殺生しませんように。


薬師寺のサイト

法相宗大本山 薬師寺はここ
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2008年04月07日

神功皇后陵から五社神古墳へ

陵墓関係16学会、協会が開催するシンポジウム、「陵墓」研究のいま −神功皇后陵から五社神古墳へ−を聴きに行ってきました。

神功皇后と呼ばれる仲哀天皇の皇后で、応神天皇のお母さんであるとされる人の御陵だと宮内庁から指定されている五社神古墳(狭城盾列池上陵)という全長約270mの前方後円墳があります。

今年、陵墓関係学、協会に宮内庁から立ち入りの許可がありましたので2008年2月22日に最下段(一部2段目)テラス上面までの立ち入り、墳丘表面観察が行われました。その成果の報告です。

お話は
宮川すすむ先生(文化財保存全国協議会)
高橋浩二先生(日本考古学協会)
今尾文昭先生(古代学研究会)
岸本直文先生(大阪歴史学会)

2003年に宮内庁が護岸工事に伴う事前調査を行っています。墳裾に21ヶ所トレンチを入れて調査されています。
その時の調査によると
前方部前面と前方部西面にある濠は元々あった周濠ではなく幕末(文久)に造られたもので、前方部西側に「造り出し」があります。
お供え物用のミニチュア土器や笊形土器などが出土。

埴輪は円筒埴輪の他に、朝顔形埴輪、壷形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪などが出土しています。

調査前は等高線が2m間隔の図面しかなかったのですが、1m間隔のより詳しい図面が得られました。
それによると、
・後円部4段、前方部3段、西側に造り出しを持つ。
・墳丘長267m、後円部径 約190m(高さ27m)前方部幅 約150m(高さ20.5m)

4世紀後半最大の倭国王墓です。

今回の立ち入り、表面観察では前方部の東側、汀部に葺石、転石状況と円筒埴輪が並んでいるのも確認されました。
西側と同じく造り出しがあったのではないかと思われます。

・・・正直、難しかったです。観察報告ではなくて先生方の説が聴けて、どれも知らなかった事なので面白かったのですが、難しかったです。?????????i?????U?????j

大王墳が二系列併立していたと言うお話なのですが。
主系列は王墓の系列:国家的祭祀を司る王か

副系列は王墓に準じる系列:軍事、政治を司る王か(主系列とは性格の異なる王墓)

・・・と言う考え方があるそうです。

それと、記紀を無視して考古学だけで考える考え方があるそうで、その事も知りませんでした。
自分がこれまで読む本や聴いた先生方のお話は、記紀や延喜式などの表記が発掘調査の結果とあっているとか、違っているとかだったので、少し違和感がありました。

何だか恐竜の骨を掘り出してるんではなくて、人間の文化をたどっているわけだから、文献と考古学的な結果は両輪のように思えるし、どちらかだけに重点を置いたり、どちらかだけで考えたりするのはどうかと。
記紀の内容が当てにならないことがあったとしても・・・。
うーん、そういうふうに考えるのもありなのか・・・。


今回の調査許可は大きな第一歩と言われていますが、それはどんな所なのでしょう。

どんな人が立ち入り許可されますか?
1)大学、短期大学又は高等専門学校の教員

2)都道府県又は市町村の教育委員会に所属する者

3)研究機関又は研究団体が主体となって行う研究に従事する者

4)前3号に掲げる者のほか、書陵部長が適当と認める者

見学の対象者が考古学等の史学を専門とする研究者だけでなく、動植物の研究者などにも拡大しました。
古墳は宮内庁によりとても大切に管理されています。下草の手入れも行き届いていて、よく手入れされた里山の動植物の生態系などの調査が期待されます。

4)では、大学のゼミの学生さん、将来の学者さんの卵も立ち入り許可される可能性があります。

どこまで見学できますか。
旧方針では、堤防その他の外周部までだったのが、古代高塚式陵墓では墳丘の最下段上面テラスの巡回路までとなりました。

どの陵墓が見学対象ですか?
古代高塚式陵墓のみでしたが堂塔式陵墓を含めた陵墓全般となりました。

陵墓は文化財としての一面もありますが、皇室よう財産でもあります。
16学会でも陵墓参考地以外の陵墓で行われているような発掘調査は大王陵では考えていないようで、最小限度の調査から最大限の結果を得るような考えのようです。

発掘は破壊に他ならないので、一度破壊してしまったものはどうしたって元には戻りません。動植物生態の資料としても公開されるのでそれはできません。陵墓参考地以外の所で今行われているような大きくトレンチを入れるやり方は無いでしょう。

それでも大きな第一歩だと思います。

古墳、古代史のシンポジウム、講演会はいつも満員です。
新幹線や飛行機でわざわざお見えになって大急ぎで帰られる姿をよく見かけます。今回も近畿外からみえた方もいらっしゃるようで熱心さに頭が下がります。立ち見の方がいらっしゃる大盛況でした。

五社神古墳はここ
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2008年03月28日

信貴山朝護孫子寺

信貴山朝護孫子寺はお山の上にあるので、たぶん桜はまだ蕾でしょうねと思いながら行ってきました。

jizo.jpgshigisan2.jpgtorii.jpg


近鉄信貴山下駅からバスに乗り「信貴山」に着いて徒歩10分ほどで、たくさんのお地蔵さんに迎えられます。それから山門、まだ桜は蕾です。それから鳥居があります。額束のところに「多聞天」とあります。毘沙門天のことです。

shigisan1.jpg

↑この張子の寅の前に来ると、いつもの事ながら

「今期、優勝は無理だとしても、せめてAクラスには入りますように。選手達がたいした故障、怪我も無く無事乗り切れますように。」と自動的にお願いしてしまいます。もちろん阪神タイガースの事ですけども・・・。
あ、特にそういう祈願をするお寺ではありませんけども・・・。

わ〜い、今日からセ・リーグ開幕exclamation

聖徳太子が好きですし自分の干支でもあるので、ここのお寺さんには割とよく訪れます。眺めも良いですしね。
寅のバックに見えるのは本堂です。ここからの眺めが素晴らしいです。運良く読経タイムと重なれば、心地よい読経をBGMに素晴らしい眺めを堪能できます。???[???i?????????j

聖徳太子が物部守屋討伐のために、この山で毘沙門天王に祈願され、その御加護で勝利されたのが寅の年、寅の月、寅の日であったということでトラさんなんです。境内のいたるところに張子の虎や石像のトラがいますよ。

kaya2.jpg

樹齢1500年のかやの木です。
ちょっと前にも樹齢1000年以上の木を見ましたね。
奈良豆比古神社(過去記事)

kaya1.jpgkaya3.jpg←クリックすると説明板が拡大します。蘇我氏と物部氏の激戦を見てきたのでしょうね。



kannon.jpg 境内には、あちらこちらに祈願する所があります。ここは厄除け観音。観音様ですが、どかっと鳥居があってちょっとビックリします?????????i?????U?????j
また、千手院には全国唯一の銭亀善神を祀るお堂があり、来月、4月6日には銭亀祭りがありますよ。「お金廻りが良くなりますように」
桜はまだ蕾ですが、その頃にはたくさん咲いて綺麗でしょうね。あちらこちらに飾りつけがされてお花見の準備も整っています。

信貴山朝護孫子寺のサイト
信貴山朝護孫子寺はここ
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2008年03月21日

奈良公園を散歩

暖かい日が続きましたが、昨日は少し冬に逆戻りしたような肌寒い日でした。

どれどれ公園の梅はどんなもんでしょう。

すっかり満開で、場所によっては身頃な感じですが、そろそろ散り始めて地面がピンク色ですね。少し気温が戻って冷たく感じる一日なのに鹿さんは水に入ってザブザブしているのもいたりします。

公園の池のご夫婦も、いつにも増して仲良しさんでした。

「今日はちょっと冷えるね。」

「でも春よね、人間達がたくさん来てますよ。」

東大寺 二月堂のお水取りも終わってお彼岸の中日も終わって、後は桜の咲くのを待つばかり。

東大寺の境内には、たくさんのお社があります。二月堂の前にも、ほら。

二月堂のすぐ南側には手向山八幡宮があります。境内ですね。そして、二月堂のすぐ前には、

閼伽井屋(あかいや)という井戸があります。

重要文化財 閼伽井屋(あかいや)

この閼伽井屋は修二会に際し毎年三月十二日(13日午前1時過ぎ)にこの屋内にある井戸より本尊十一面観世音菩薩にお供えするお香水(閼伽水)を汲む儀式を行うところである。天平勝宝四年(752)実忠和尚が二月堂で初めて修二会を行い諸神を勧請した際、若狭国の遠敷明神が献じたものであるところから「若狭井」とも呼ばれる。現在の建物は十三世紀初期に再建されたものであろう。

東大寺 

しめ縄してあります。

『実忠和尚が二月堂で初めて修二会を行い諸神を勧請した』

かんじょう くわんじやう 0 【勧▽請】

(名)スル

(1)神仏の来臨を請うこと。

(2)神仏の分霊を他の場所に移しまつること。宇佐神宮から分霊を迎えて石清水八幡宮をまつったことなどはその例。

goo 辞書

偉い僧侶がお願いして神様に来てもらっているのですね。

奈良では、お寺さんに大きな鳥居が建っている所をざらに見かけます。

鎌足さんのお家は神官のお家でしたが、長男の貞恵は僧侶となって渡唐したし、お孫さんの光明皇后は今では法華寺で観音様に姿を変えて日本を見守っていらっしゃるし。御陵にはちゃんと鳥居がしてありますけどね。

現代では医療や科学が発達して人間は何でもできるような顔をしていますけど、大昔は天災や飢饉、疫病など自然の力の前には何とも無力だったのでしょうね。それだけでなく大陸から敵が襲い掛かってくるかもしれない。

神様だろうが仏様だろうが、守ってくれるものなら何でも取り入れましょう。どんなものに姿を変えてでも私たちをお守りくださいとね。

今でも荒れ狂う自然の前には人間は無力なのは、あまり変りがありませんけども。

神仏習合が何のことやらわからない・・・、そんな時は、どうぞ奈良へお越しください。たくさんの寺院や神社があなたを神仏習合のミラクルワールドへ誘いますよ。

posted by charon(amonohi) at 09:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

纏向(まきむく)遺跡調査報告

奈良県桜井市北部 東西約2km、南北約1.5kmの範囲に広がる纏向遺跡は3世紀代、古墳時代前期を中心とする時期の大規模な集落遺跡で、この時期の重要な遺構、遺物がたくさん出土することで知られています。また、纏向遺跡は日本列島の中でも最も古い古墳群で、列島各地域の土器が出土しています。

3世紀半ばから後半は、弥生時代と古墳時代のちょうど境目に当たる時期で、ややっこしい時期であり興味深い時期でもあるのです。

纏向遺跡には古墳出現期の大型墳墓が複数存在しますが、その中の一つ、倭迹迹日襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の墓と伝えられる箸墓古墳の北側にある3つの古墳についての調査結果報告がありました。

古墳出現期に見られる前方後円墳の形態に多く見られる「纏向型前方後円墳」というのがあります。前方部が非常に短く、後円部径:前方部=2:1に近い比率を示しているとされています。

東田大塚(ひがいだおおつか)古墳、矢塚古墳、勝山古墳について大きさ、形態を明確に確認、把握するために発掘調査が行われました。はたして、3つの古墳は古墳出現期に見られるような「纏向型前方後円墳」に該当するのでしょうか。

古墳

大きさ

形態

出土物

東田大塚古墳

全長120mかそれ以上

纏向型でない

布留0式土器

矢塚古墳

墳丘長約93m

纏向型の可能性大

五様式系甕

庄内形甕

勝山古墳

全長約115m

纏向型ではないであろう

庄内3式土器

布留0式土器

東田大塚(ひがいだおおつか)古墳

第一次調査(平成4年):周濠の外周確認。

第二次調査(平成10年):墳丘の盛土初めて検出、後円部北東側墳丘端確認、周濠幅約20mの部分存在、周濠部で土器棺墓出土、瀬戸内タイプの形で蓋は東海製

第三次調査(平成11年):後円部北西側で周濠、墳丘盛土、墳丘端確認。墳丘盛土下層に古墳築造以前の遺構検出。

第四次調査(平成18年):幅20m程度かそれ以上の周濠を持つ墳丘全長108m以上の墳墓であろう。  墳丘下の遺構、古墳築造以前に作られた井戸から布留0式の土器(3世紀後半)が出土。なので古墳自体はそれより新しい時期に築造と限定して考えられるようになった。

今回 第五次調査(平成19年〜20ねん):後円部径70m前後と推定すると前方部が50mかそれ以上の全長120mかそれ以上の纏向型前方後円墳ではない3世紀後半頃、築造の前方後円墳です。

矢塚古墳

前方部 前面あたりのトレンチで13世紀前半の土器が出土したり、大きく削られている可能性があるものの、前方部前面と予想されるラインよりも短い位置で前方部が終わっているであろう。

周濠部から出土する土器に五様式系甕、庄内形甕は見られるが、布留形甕が見られない。第一次調査の時に出た庄内3式期の土器群から、庄内3式期までに築造された古墳で中世期に削られてる可能性があるものの2:1の比率を持ち墳丘長約93mの纏向型前方後円墳であろう。

勝山古墳

後円部南側から前方部南側のくびれかと思われる部分の周濠で調査が行われ、墳丘の裾部分の把握。

今回の調査区の中で一番東側の調査区から、現在よりも2m下がった所に古墳の裾が確認された。最下層より10cm上の所に奈良時代の土馬出土。

くびれと思われた調査区からはくびれ部ではなかったことが分かり、本来古墳にあったと思われる葺き石(手のひら大)出土。

一番西側の調査区から、葺き石と思われる石 30以上出土。周濠外周と墳丘の裾確認。  周濠から鉄製品製作(鍛冶作業)に使われたと思われる「ふいごのハグチ」が出土。庄内式土器中の古い時代のものと思われる。

過去の第四次調査(2000年)時に北側のくびれ部分から大量の木製品(すき、建築部材)土器(庄内3式 布留0式)が出土しています。水銀朱の付着するもので祭祀に使われて、ここに捨てられたものと思われます。  その木製品のヒノキ板年輪年代A.D.199 推定A.D.210年ごろまでに伐採されたであろうことが分かっています。

また、古墳の北西部、周濠外周と思われる所の外側に鍛冶遺跡が発見されるなど、「ふいごのハグチ」の出土と合わせて鉄器制作に関わった地域でしょうか?

後円部径70mの全長約115mの纏向型ではないであろうと思われる前方後円墳です。築造時期は古墳時代前期(庄内式末期か布留0式期?)の可能性が考えられます。

いずれの古墳も築造年代、形態、全長の確定は今後の調査結果に委ねられます。

古墳出現期の前方後円墳だからといって、どれも前方部の短い「纏向型前方後円墳」だというわけではなく定型化した前方後円墳も存在した事が分かりました。

こうした同時代の古墳の形態の違いがどのような意味を持つのか、今後の検討が必要となります。

お話は、橿原考古学研究所、桜井市教育委員会の先生方でした。

以前に山尾幸久先生のお話を聞きに行った時に、『「前方後円墳」ばかりではなく、大和古墳群には「前方後方墳」もたくさんあるんですよ。中には”へそ曲がり”もいて「いや!うちは前方後方墳!」とがんばるやつもいたんです』と、楽しいお話を聞かせてもらいました。

私もそう思います。だいたいその方が楽しいですよね。全体主義みたいに皆が同じ形の墳墓に揃えてなくて、中には”へそ曲がり”もいたって良いじゃない。

ちなみに「方形」は地を表し、「円形」は天を表します。「畿内の巨大古墳を考える」のフォーラムで広瀬和雄先生のお話でも聞けました 方=地=人の空間、円=天=カミの空間 という古代中国の思想に通じるのでしょうか。

方墳は地の崇拝、円墳は天の崇拝で方墳の方が古いのですと山尾先生はおっしゃっていました。いつまでも昔の信仰を捨てない人達もいたであろうと。

あ、どこかで聞いた話だと思ったら・・・

神話学の大家、三品彰英氏は、弥生時代の祭器である銅鐸が地中に埋蔵された状態で発見されたところから、銅鐸は地霊・穀霊の依代であって、その宗儀は地的宗儀であったと考え、つぎの時代に北方アジアから天をまつる天的宗儀が伝えられた、と論ぜられたが、アメノヒボコの祭祀は、まさにその天的宗儀の流れを汲むものであろう。 

古代日本と朝鮮・中国  直木孝次郎著  講談社学術文庫

纏向型前方後円墳の話から外れましたが、きっちり右向け右でないところが・・・大和しうるはし

桜井市の市長さんがご挨拶なさいました。

「私の任期中に邪馬台国が、ここ桜井であった事を証明できるような発掘を!!」と大変意欲的でいらっしゃいました^^

近畿で生まれ育って奈良に住んでいる私ですが、何となく「邪馬台国」は九州のような気がして・・・。偉い先生方が「邪馬台国は畿内と決着しているんです」とおっしゃっても、ロマンとして九州だったんじゃないかと思いたいムラムラがありまして・・・

吉野ヶ里遺跡みたいにお骨の入った甕棺墓のたくさん出てくる集落遺跡、明らかに卑弥呼の祭祀後とされる遺構・・・奈良で出てきたらそのムラムラも治まることでしょう。

纏向遺跡はこのあたり
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2008年02月29日

畿内の巨大古墳を考える(3)

古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』

奈良大学教授・近つ飛鳥博物館館長  白石太一郎先生のお話。

「巨大古墳群の終末と古代国家 −古市古墳群の終焉と王権の動向−」

日本の古代国家が成立するのは、国家が民衆を直接掌握するようになってからのこと、7世紀末、古代律令制が成立して古代国家の成立とすべきであると言う白石先生のお考えです。古市古墳群に巨大な古墳が造られなくなって、古代国家が成立するまでの間はいったいどんなふうに王権は変化していったのでしょう。

天野末喜先生が午前中の講演「倭の五王の墳墓を推理する」で岡ミサンザイ(現仲哀陵)を雄略天皇陵に当てて考えておられたのですが、白石先生も同じお考えで、この雄略天皇陵であろう岡ミサンザイ古墳以後は大きな古墳は造られなくなりました。

吉備地方で5世紀に大きな前方後円墳が3つ造られるのですが、5世紀後半では造られなくなっています。

その雄略天皇の時代には治安行刑職(物部)が成立したり、関東や九州の豪族を大王の宮廷に来させて仕えさせることが慣行化したり、諸豪族に対して大王の絶対優位が確立した時代でした。

雄略天皇が亡くなられた490年前後の5世紀末を境に、古市古墳群にある岡ミサンザイ古墳を最後に大きな古墳が造られなくなったと言う事は、雄略以前より大王の権力が大きくより確立したものに変化していったのです。

6世紀に入って継体朝が成立します。継体天皇の御陵は高槻市にあります今城塚古墳としてほぼ間違いないとされていますが、皇后である手白香皇女のお墓は大和古墳群の中にあります。3世紀代の古い古墳に囲まれて、ひとつ6世紀の墳墓としてあります。宮内庁の指定では西殿塚古墳となっていますが、この古墳も3世紀の古いもので、一基だけ前方部を北に向けている6世紀に造られたとされる西山塚古墳が今では手白香皇女のお墓であろうとされています。今城塚古墳によく似た前方後円墳で、埴輪はあの新池遺跡製なのですから。

「手白香皇女は間違いなくヤマト王権を築いた始祖達の末裔なのです」と後々まで伝えるかのようにヤマト王権始祖達の墳墓群の中で静かに眠っておられます。継体天皇に続く欽明天皇(手白香皇女がお生みになった皇子)への皇位継承の正当性を訴えるように。

6世紀の大王陵は大王を支えた有力豪族の本拠地に造られるようになります。継体天皇陵も三島の辺り、淀川水系にいた有力豪族が継体天皇を支えたのでこの地に造られたのでしょう。この事は大王の権威が確立していったために、在地性を持たなくても大王として成り立つようになったということで、5世紀以前と王権のあり方とは変化が見られると言う事なのです。

古市古墳群のように巨大な古墳は次第に消えると同時に大王の権威は確立していき、それぞれの大王を支えた有力豪族の地に墳墓を造るようになりました。確立した大王の権威と畿内の有力な豪族の合議制による政治を行うようになり、古代国家の成立へと進んでいくのでした。

白石先生の本は、よく読ませていただいているので特に驚く事もなかったのですが、ひとつだけ・・・。

古事記、日本書紀、延喜式の陵墓の記述をピックアップしていくと、安閑、宣化天皇が日本で始めての夫婦合葬であったことがわかります。安閑、宣化天皇は継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ)の間の皇子なのですが・・・。

夫婦合葬は中国、朝鮮半島ではあたりまえに行われていた事ですが、この当時の倭人達には無いことで、妻はお里の地に葬られる事になっていました。

欽明天皇が堅塩媛と合葬されているのは、蘇我馬子による蘇我氏と天皇家の結びつきのデモンストレーションだし、ずっと後の天武、持統天皇の合葬は「血のつながり」「同族意識」で結ばれたものとして倭人の間でもあったことだし、安閑、宣化天皇の夫婦合葬は不思議ですね。

ヲホド王の御一家は、よほど大陸の文化の影響を受けた人たちだったとか、もしかしてそのものずばり・・・・。

そうそう、今城塚古墳は石棺の欠片から棺が3つだったのではないかと言うお話もあったりして。もしかして、継体天皇と三尾の二人の御妃と共に眠っていらっしゃったのでしょうか。うーん、やっぱり継体天皇は謎の天皇です。

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2008年02月28日

畿内の巨大古墳を考える(2)

引き続き フィールドミュージアムトーク 史遊会主催の 古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』から

国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授 広瀬 和雄先生のお話。

「巨大古墳に見る古代人の心性」

JR阪和線の三国ヶ丘駅から百舌鳥駅間、西側にずっと見えっぱなしなくらい巨大な大仙古墳、大林組さんが計算すると、1日2000人の人が働いて完成まで15年8ヶ月かかるそうです。

古代の人達はどういうわけでこんなにも大きな前方後円墳を造ったのでしょうか。

前方後円墳は山の奥の辺鄙な所にあるのではなく、たいてい交通の要所に人の目に付くようにあります。古代人たちが通ったであろう道の傍とか、兵庫県の五色塚古墳のように船の上からよく見える所にあるとか。

そして、前方後円墳だからと言って、いつも前方部分が前だというわけではなく、墳墓によって「この墳墓は東側のこの辺りから見てね」というように見る位置をすごく丁寧に造ってあり、そうでない裏側は適当に造ってあったりして、それぞれの墳墓に正面観があります。

現代に見る古墳はどれも木の生い茂った小山のような姿ですけど、出来た当初は盛土に石が葺いてあって、段々が付いていて段ごとに円筒埴輪がズラーッと並んでいて、それは壮観だったでしょう。

前方後円墳は見るもの、見せるものだったのです。

古墳時代の前期、中期に首長や大王はどのよに葬られていたのでしょう。3世紀から4世紀の古墳から、遺骸は木棺にたくさんの鏡などと共に入れられることで邪悪なものから遠ざけられ、粘土で密閉され、排水施設を設け、保護、密閉、辟邪に力を注がれているのがわかります。

肉体を肉体として保持しようとしているのです。
おそらく、3世紀から4世紀の人達には霊魂観とか、霊肉分離の観念とか、他界観とか無かったと思われます。

それは出土する副葬品からも推測されます。
この頃の副葬品として、

威信財(中国鏡、碧玉製品):権威をあらわす。
 +
権力財(武器、武具):武力
 +
生産財(農具、工具):食料生産 鍬、鎌

などの共同体再生産のための道具が副葬されていますが、土器や須恵器など生活財、個人的な色彩が見当たりません。

首長は亡くなっても首長の役割を果たすため、中国王朝の権威と外的から集団を守る武力と食料生産のための道具を持たされて埋葬されたのですね。
この頃の古代人に亡くなった首長にあの世でのんびり暮らしてもらおうなんて気は全く無く、神となって共同体を守るためもうひと働きしてもらわなくてはならず生活財なんか副葬したりしません。

亡くなった首長に神となって守護してもらうためには儀式が行われます。
山や海の彼方のどこかに、神のコアがあって儀式を繰り返す事で死んだ首長に神を憑依させ、神となって共同体を守護してもらう、そういう共同幻想が前方後円墳祭祀でした。

生きている首長には守りきれない大きな災い、天変地異などから守ってもらうのです。

そうして考えると古墳時代の首長の力といっても古墳の大きなものがあるうちは、それほど強大なものではなかったと思われます。何せ死んだ人の力まで借りないといけないくらいですから。

人々の見える所に前方後円墳を造り、先代の王が神となって守護していると共同の意識として持ち、地方の豪族からも自分達と同じ墳墓を持つ仲間として意識してもらい、しかし墳墓の巨大さで力の圧倒的な差を見せつける。

このような目で見る国家、目で見る王権が3世紀中ごろから7世紀初頭まで約350年も続きました。

最初に見せる要素を含んだ墳墓が現れたのは2世紀後半、弥生時代の後期くらい、出雲の四隅突出型墳墓でした。
6世紀前半頃から、古墳時代の前期中期に見られたように棺の中だけに辟邪されていたものが、玄室壁面全体を装飾する事で石室全体を辟邪するように変わってきます。

同時に須恵器などの生活のための容器、生活財が副葬され始めます。

霊魂観の成立です。

畿内や北部、中部九州で5世紀末から6世紀にかけて霊肉分離の観念が普及し始め、他界観が生まれ、古墳は個人的色彩が強くなり、それでもまだ依然として共同体的な役割を持ちながら、両者のせめぎ合う状態が100年間くらい続きました。

仏教的な他界観が入ってくるのは、それから後の事でした。

いつも古墳や遺跡、出土品を見ながら、何年くらいのものかとか、科学的にどう分析されるのかとか、そんな事ばかり気にしていて古代人の心性なんてほとんど考えていなかったので、たいへん面白いお話でした。

今後、古代における宗教観の変遷が研究されるのを期待したいです。

そうですかぁ・・・前方後円墳に眠る人達は死んでも死なせてもらえず、今でも国を守る役割を果たそうと、その辺りをたゆとうているのしょうか。
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2008年02月27日

畿内の巨大古墳を考える(1)

フィールドミュージアムトーク 史遊会が主催する古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』に行ってきました。

お昼前から夕方にかけて3人の先生方のお話が聴けて、大変充実した1日でした。???[???i?????????j

藤井寺市教育委員会文化財保護課課長 天野 末喜先生のお話。

「倭の五王の墳墓を推理する」

大和の古墳よりも大きな古墳、まさに巨大古墳の名にふさわしい前方後円墳が古市古墳群、百舌鳥古墳群にあります。
大阪に来てJR阪和線に乗られて、三国ヶ丘駅と百舌鳥駅間を通られた方はよくお分かりかと思いますが、この駅間西側にずっと古墳が見えているのです。
仁徳天皇陵とされている大仙古墳なんですが、一駅間ずっと見えてる古墳なんて、何ぼ大和でもありません。?????`?i???_???????j

この大仙古墳を含む古市・百舌鳥古墳群を世界文化遺産に登録しようと大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市が、がんばっておられます。
がんばれ〜〜?????????i?V?????j

とは言え、宮内庁が指定している天皇名と古墳の年代とが合っていなかったり、明らかに天皇陵であろうと思われる古墳が陵墓参考地どまりの指定であったり、実際その天皇が実在したのかという問題も含めてたくさんの問題を含んでいる日本の古墳なのです。

そんな中でも当時の海外、中国の正史、宋書に登場する天皇、倭の五王、5人の古代天皇の陵墓がどれに該当するのか推理してみましょう。

5世紀の中国は北方遊牧民族の勢力に押されて漢民族は南に後退していました。北は北方民族の北魏、南は漢民族の宋、斉、梁となっていきます。南北朝時代です。
その時の宋書に421年から478年の約60年間に5人の倭国王、讃、珍、済、興、武がそれぞれ何年に誰が朝貢して、こんな事を要求してきたとたいへん簡潔に書いてあるのです。
当時、倭国は中国の属国なので認めてもらうように遣使朝貢していたのです。

他に讃と珍は兄弟である、済と興は親子、興と武は兄弟ということが記されています。
たくさんの研究がなされて 珍=反正天皇、済=允恭天皇、武=雄略天皇についてはほぼ一致しています。

讃は履中天皇と言う人がいたり、仁徳天皇と言う人がいたり、応神天皇だったり説が分かれます。
興は安康天皇が多数ですが、定説をみません。

それぞれの大王の墳墓はいつできたの?

宋書に出てくる遣使朝貢の記録から、それぞれの天皇の古墳の完成年を推定してみます。

讃の先代王の墳墓の完成年=413年(讃の最初の遣使朝貢年)の直前

讃の墳墓の完成年=438年(珍の最初の遣使朝貢年)の直前

珍の墳墓の完成年=443年(済の最初の遣使朝貢年)の直前

済の墳墓の完成年=462年(興の最初の遣使朝貢年)の直前

興の墳墓の完成年=477年(武の最初の遣使朝貢年)の直前

武の後の王が遣使朝貢していないので上の方法では推測できませんが、さきたま稲荷山古墳から出土した鉄剣銘を手がかりに武の墳墓は5世紀末に完成したであろうと推定されます。

それぞれの天皇の遣使朝貢年の直前に先王の墳墓が完成したであろうと推定されるのは、

大王は先代の王の古墳を造成して初めて王位継承が認められたと思われるからです。
大王が亡くなると古墳を造って、古墳の上で「これからは神様として集団をお守りくださいね」と亡くなった大王を神にする儀式を行って、次に大王になる人の王位継承を知らしめる舞台装置としての役割が古墳にはあったとされているからです。

それをすませてから中国へ朝貢に行ったのです。

古墳が完成した年はどのようにしてわかるの?

古墳から出土する円筒埴輪や須恵器編年がここ30年ほどでたいへん進展しています。
ある遺跡から出てきた須恵器の近くから木製品が出てきたとします。その木が伐採された年を年輪年代法でわかると合わせて出てきた須恵器の年代がわかります。形や模様を細かく記録して例えばTK47型として記録しておきます。
木製品の他にも、さきたま稲荷山古墳出土の鉄剣のように年代が明記してある物を頼りに、一緒に出土した須恵器、円筒埴輪の年代を推定し形模様を分類するといった細かい作業を積み重ねていった結果、今日では陵墓に治定されている巨大古墳がいつ完成されたか、ほぼ定まっています。

どれが大王の墳墓だかわかるの?

古墳の完成年がわかってきたので、同年代の古墳の中でも大きなものは大王陵です。

斬新なデザインのもので後まで引き継いで行われているような古墳、例えば二重濠がある時出現し、それ以後二重濠の古墳が出現するなど、そういったものは大王陵です。

そうやって大王陵と思われるものをピックアップします。

先ほどの宋書から推定した大王陵完成年と須恵器の型式を合わせてみましょう。
すると、

讃の先代王=TK73

讃=TK216〜208

珍=TK208

済=TK23

興=TK23

武=TK47

これらの型式の須恵器を副葬品として持つ古墳がそれぞれの大王の墳墓として有力となります。
そうすると、

讃の先代王の墳墓    誉田御廟山古墳(応神陵)

讃の墳墓        大仙古墳(仁徳陵)

珍の墳墓  反正天皇  土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)

済の墳墓  允恭天皇  市野山古墳(允恭陵)

興の墳墓        軽里大塚古墳(白鳥陵)

武の墳墓  雄略天皇  岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)

岡ミサンザイ古墳では円筒埴輪の資料は多く、須恵器の資料が少ないですが、TK47型式の須恵器がたくさん出土する軽里4号墳と同型式の円筒埴輪を持っていた岡ミサンザイ古墳を推定されました。

少ないデータの中で倭の五王の墳墓を推理してくださり、大変面白い講演でした。これからの更なる研究と新しい技術で新しい事がまたわかってくるかもしれませんし、陵墓参考地の調査の幅を宮内庁が広げてくだされば、確かな事に近づいていくのでしょうね。

あれこれ推理を楽しめるのは今のうちかもしれません。???[???i?????????j

日本一の巨大古墳大山陵はここ!
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2008年02月26日

継体天皇と古代高島-田中36号墳の調査から-市民大学講座

継体天皇の重臣かと思われる人の墓がもしかして九州系の墓?重臣の人に九州の人がいた?なんてニュース記事を以前の記事に書きました。
継体天皇の重臣の墓(過去記事)

それでそのニュースの記事に出てくる田中36号墳についてのお話がありましたので聞きに行ってきました。

講師は 高島市教育委員会 文化財課 宮ア雅充先生

継体天皇はいったいどこの出身の人かというと、近江国 高島の三尾とする説と越前の三国の三尾という説があります。
越前の三尾の地名は流動的なのに対して高島の三尾という地名は古代から実在した地名なので近江国 高島の三尾出身なのではないかということです。

では、日本書紀に出てくる近江国高島郡三尾別業とはいったい何の事でしょう。
別業(なりどころ)とは、別荘の事で三尾にある別荘と言う事です。

で、誰の別荘?

継体天皇の父方は琵琶湖北東部を拠点とする息長氏とされています。
息長氏の拠点のあった琵琶湖北部は鉄鉱石の産出地でした。
その息長氏が湖西の高島に進出してきた時に持った別荘(別業)で継体天皇はお生まれになったのではないかということです。

高島には奈良時代にまで遡る製鉄に関わる遺跡があり、もしかしたら古墳時代にまで遡るかも知れないものです。

佐紀楯列古墳群や古市古墳群の中の陪塚には大量の「鉄てい」が出土する鉄だけを埋葬してあるものがあります。5世紀末くらいまでのもので、外国製の「鉄てい」です。
なので、この頃、継体天皇(即位する前のヲホド王)は国内鉄生産を始めたのかもしれませんね。

JR湖西線の安曇川駅の西側に継体天皇のお父さん、彦主人王(ひこうしおう)の墓とされている古墳、田中王塚古墳があります。
その古墳を囲むように43基の古墳で構成される古墳群になっていて、これを田中古墳群と言います。

彦主人王のお墓は陵墓参考地なので調査は難しいのですが、ここから、少し南東の所に鴨稲荷山古墳という前方後円墳があり、藤ノ木古墳に匹敵するような素晴らしい副葬品が出土しています。

この時期に、この三尾の地で藤ノ木古墳に匹敵するような副葬品が出土する古墳が現れると言う事は、継体天皇に尽力した人達、あるいは三尾氏の族長のお墓ではないかと推測されます。

それで、お話は田中王塚古墳(彦主人王の墓)の周りの田中古墳群の古墳の一つ、田中36号墳に。

墳丘は 直径24m、高さ2〜4mの円墳
花崗岩質の石(比良山系から産出)を面取りした石で構築。
横穴式石室
羨道部、玄室、奥室からなる。
玄室と奥室の間に仕切り石がしてあって、玄室から奥室が見える構造。
奥室に遺体が置かれていて、木棺直葬。
奥室の床面、壁面に赤色顔料(酸化鉄)が塗られている。

遺物
玄室に鐘形鏡付轡、環状鏡板付轡、雲珠、絞具、辻金具等の馬具類

仕切り石に須恵器類
床面敷石 土玉、ガラス玉、耳環等

こんなふうに玄室の奥に奥室を設けるという方法は畿内より北部九州の埋葬の思想としてある事だというお話で、実際そういうのが北部九州から出ているかというとそうではないという事でした。
ちょっと、過去記事のニュースの内容とは違っていました。

先生によって、そうおっしゃる先生もいらっしゃるという事でした。

継体天皇の重臣に九州の人がいたかどうかは謎のままですね。

ところで、彦主人王の墓とされている田中王塚古墳ですが、元々は円墳だったものを明治時代に造り出し部分を造ったのではないかという説があります。

このような例は他にもありまして、羽曳野市の雄略天皇陵と指定されている古墳は元々直径75mの円墳だったものに、あとから細長い二等辺三角形の前方部を付け足したものです。
雄略陵が円墳ではおかしいと思ったんでしょうね。

それと、この前、方形周溝墓群を見に行った近くにある倭彦命陵とされている古墳は元々一辺が85mの方墳だったものを前方後円墳に作り変えています。

こういったことは幕末から明治にかけて行われていて、後の時代の者が、ちょっと見てわかるようなごまかしや捏造はホント恥ずかしいから今後は絶対しないで欲しいと思います。・・・しないでしょうけどね。?????C???i?????j

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←高島市教育委員会 文化財課 高島古代史探訪ガイドマップ 継体天皇伝承地を歩く

彦主人王御陵と田中古墳群はここ!
posted by charon(amonohi) at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月22日

般若寺

奈良豆比古神社の前の南北の坂、奈良坂を南へ下ると左手に般若寺があります。
般若寺は飛鳥時代に高句麗の僧が創建したお寺です。
平重衡による南都焼き討ちにあい焼け落ちてしまったり、その後も火災や兵火に遭ったり、廃仏毀釈でえらい目に遭ったり・・・。

何度も廃寺同然に荒れ果ててしまうのですが、不死鳥のように甦るお寺です。
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バランスの取れたカッコの良い楼門は鎌倉時代に建てられました。
国宝です。

zyusan.jpg十三重石塔(重要文化財)平城京の鬼門鎮護のために聖武天皇自筆の大般若経を納めたそうですが、南都焼き討ちの時に焼失してしまったのかもしれませんね。
鎌倉時代、民衆と共に十三重石塔が再建されました。









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笠塔婆 十三重石塔を建てた宋の石工、伊行末の息子・伊行吉によって建立されたました。重要文化財

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般若寺は花のお寺ですね。 今の季節は水仙が咲き乱れていますが、以前に秋のコスモスの季節に来た事があります。コスモスは背が高いので境内がコスモスで埋もれてしまうようになってしまいます。

コスモス寺として有名ですが、今頃の水仙、4月には山吹、6月には紫陽花、一年を通してお花の咲くお寺です。


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何度も何度も戦火に遭い、大戦という大きな時代の流れにも巻き込まれ、荒れてしまったりもした般若寺。もう二度と争いごとが起こりませんように。平和の塔には広島と長崎の原爆の火が灯っています。

般若寺はこちらです。
posted by charon(amonohi) at 20:58|