神功皇后と呼ばれる仲哀天皇の皇后で、応神天皇のお母さんであるとされる人の御陵だと宮内庁から指定されている五社神古墳(狭城盾列池上陵)という全長約270mの前方後円墳があります。
今年、陵墓関係学、協会に宮内庁から立ち入りの許可がありましたので2008年2月22日に最下段(一部2段目)テラス上面までの立ち入り、墳丘表面観察が行われました。その成果の報告です。
お話は
宮川すすむ先生(文化財保存全国協議会)
高橋浩二先生(日本考古学協会)
今尾文昭先生(古代学研究会)
岸本直文先生(大阪歴史学会)
2003年に宮内庁が護岸工事に伴う事前調査を行っています。墳裾に21ヶ所トレンチを入れて調査されています。
その時の調査によると
前方部前面と前方部西面にある濠は元々あった周濠ではなく幕末(文久)に造られたもので、前方部西側に「造り出し」があります。
お供え物用のミニチュア土器や笊形土器などが出土。
埴輪は円筒埴輪の他に、朝顔形埴輪、壷形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪などが出土しています。
調査前は等高線が2m間隔の図面しかなかったのですが、1m間隔のより詳しい図面が得られました。
それによると、
・後円部4段、前方部3段、西側に造り出しを持つ。
・墳丘長267m、後円部径 約190m(高さ27m)前方部幅 約150m(高さ20.5m)
4世紀後半最大の倭国王墓です。
今回の立ち入り、表面観察では前方部の東側、汀部に葺石、転石状況と円筒埴輪が並んでいるのも確認されました。
西側と同じく造り出しがあったのではないかと思われます。
・・・正直、難しかったです。観察報告ではなくて先生方の説が聴けて、どれも知らなかった事なので面白かったのですが、難しかったです。
大王墳が二系列併立していたと言うお話なのですが。
主系列は王墓の系列:国家的祭祀を司る王か
副系列は王墓に準じる系列:軍事、政治を司る王か(主系列とは性格の異なる王墓)
・・・と言う考え方があるそうです。
それと、記紀を無視して考古学だけで考える考え方があるそうで、その事も知りませんでした。
自分がこれまで読む本や聴いた先生方のお話は、記紀や延喜式などの表記が発掘調査の結果とあっているとか、違っているとかだったので、少し違和感がありました。
何だか恐竜の骨を掘り出してるんではなくて、人間の文化をたどっているわけだから、文献と考古学的な結果は両輪のように思えるし、どちらかだけに重点を置いたり、どちらかだけで考えたりするのはどうかと。
記紀の内容が当てにならないことがあったとしても・・・。
うーん、そういうふうに考えるのもありなのか・・・。
今回の調査許可は大きな第一歩と言われていますが、それはどんな所なのでしょう。
どんな人が立ち入り許可されますか?
1)大学、短期大学又は高等専門学校の教員
2)都道府県又は市町村の教育委員会に所属する者
3)研究機関又は研究団体が主体となって行う研究に従事する者
4)前3号に掲げる者のほか、書陵部長が適当と認める者
見学の対象者が考古学等の史学を専門とする研究者だけでなく、動植物の研究者などにも拡大しました。
古墳は宮内庁によりとても大切に管理されています。下草の手入れも行き届いていて、よく手入れされた里山の動植物の生態系などの調査が期待されます。
4)では、大学のゼミの学生さん、将来の学者さんの卵も立ち入り許可される可能性があります。
どこまで見学できますか。
旧方針では、堤防その他の外周部までだったのが、古代高塚式陵墓では墳丘の最下段上面テラスの巡回路までとなりました。
どの陵墓が見学対象ですか?
古代高塚式陵墓のみでしたが堂塔式陵墓を含めた陵墓全般となりました。
陵墓は文化財としての一面もありますが、皇室よう財産でもあります。
16学会でも陵墓参考地以外の陵墓で行われているような発掘調査は大王陵では考えていないようで、最小限度の調査から最大限の結果を得るような考えのようです。
発掘は破壊に他ならないので、一度破壊してしまったものはどうしたって元には戻りません。動植物生態の資料としても公開されるのでそれはできません。陵墓参考地以外の所で今行われているような大きくトレンチを入れるやり方は無いでしょう。
それでも大きな第一歩だと思います。
古墳、古代史のシンポジウム、講演会はいつも満員です。
新幹線や飛行機でわざわざお見えになって大急ぎで帰られる姿をよく見かけます。今回も近畿外からみえた方もいらっしゃるようで熱心さに頭が下がります。立ち見の方がいらっしゃる大盛況でした。
五社神古墳はここ





私は 卑弥呼≒天照と思っています
Charonさんはどうおもいますか?
卑弥呼は皇族女性の最高司祭者の役職名だと思うので、ある時は箸墓古墳に眠っておられるとされる「ヤマトトトヒモモソヒメ」だったかもしれません。
学会では「邪馬台国は大和に」って事になってるみたいですけど、何となく九州のような気がする私は大陸から列島に渡って来た頃の卑弥呼は天照に該当する人物だったかも知れないし、「魏志」倭人伝に登場する卑弥呼は、まだ大和王権の元になった人たちが九州にいた頃の最高司祭者だった人かなと思ったりしています。大和にたどり着いて大きなお墓に葬られた「ヤマトトトヒモモソヒメ」その人がまさしく「魏志」倭人伝の卑弥呼だったかもしれません。
・・・割とありきたりな面白みのない説をぼんやり思い描いています。^^;
んですが?
追記
つい最近、薬師寺伽藍を完成させましたが
大講堂の北側の部分が、写真等で、確認できないと、納得できないものがあります。
Charonさんは、奈良在住との事、もしも講堂北側の写真がありましたら、お譲りください、失礼とは十分承知ですがお願いいたします。
古代史の話はビックリするような説もたくさんあり、飽きる事がありませんね。
薬師寺さんの講堂北側ですね。
南側から撮った物しかないのですが、そう遠くない所なので行って撮ってみます。少しお時間くださいね。