2008年02月29日

畿内の巨大古墳を考える(3)

古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』

奈良大学教授・近つ飛鳥博物館館長  白石太一郎先生のお話。

「巨大古墳群の終末と古代国家 −古市古墳群の終焉と王権の動向−」

日本の古代国家が成立するのは、国家が民衆を直接掌握するようになってからのこと、7世紀末、古代律令制が成立して古代国家の成立とすべきであると言う白石先生のお考えです。古市古墳群に巨大な古墳が造られなくなって、古代国家が成立するまでの間はいったいどんなふうに王権は変化していったのでしょう。

天野末喜先生が午前中の講演「倭の五王の墳墓を推理する」で岡ミサンザイ(現仲哀陵)を雄略天皇陵に当てて考えておられたのですが、白石先生も同じお考えで、この雄略天皇陵であろう岡ミサンザイ古墳以後は大きな古墳は造られなくなりました。

吉備地方で5世紀に大きな前方後円墳が3つ造られるのですが、5世紀後半では造られなくなっています。

その雄略天皇の時代には治安行刑職(物部)が成立したり、関東や九州の豪族を大王の宮廷に来させて仕えさせることが慣行化したり、諸豪族に対して大王の絶対優位が確立した時代でした。

雄略天皇が亡くなられた490年前後の5世紀末を境に、古市古墳群にある岡ミサンザイ古墳を最後に大きな古墳が造られなくなったと言う事は、雄略以前より大王の権力が大きくより確立したものに変化していったのです。

6世紀に入って継体朝が成立します。継体天皇の御陵は高槻市にあります今城塚古墳としてほぼ間違いないとされていますが、皇后である手白香皇女のお墓は大和古墳群の中にあります。3世紀代の古い古墳に囲まれて、ひとつ6世紀の墳墓としてあります。宮内庁の指定では西殿塚古墳となっていますが、この古墳も3世紀の古いもので、一基だけ前方部を北に向けている6世紀に造られたとされる西山塚古墳が今では手白香皇女のお墓であろうとされています。今城塚古墳によく似た前方後円墳で、埴輪はあの新池遺跡製なのですから。

「手白香皇女は間違いなくヤマト王権を築いた始祖達の末裔なのです」と後々まで伝えるかのようにヤマト王権始祖達の墳墓群の中で静かに眠っておられます。継体天皇に続く欽明天皇(手白香皇女がお生みになった皇子)への皇位継承の正当性を訴えるように。

6世紀の大王陵は大王を支えた有力豪族の本拠地に造られるようになります。継体天皇陵も三島の辺り、淀川水系にいた有力豪族が継体天皇を支えたのでこの地に造られたのでしょう。この事は大王の権威が確立していったために、在地性を持たなくても大王として成り立つようになったということで、5世紀以前と王権のあり方とは変化が見られると言う事なのです。

古市古墳群のように巨大な古墳は次第に消えると同時に大王の権威は確立していき、それぞれの大王を支えた有力豪族の地に墳墓を造るようになりました。確立した大王の権威と畿内の有力な豪族の合議制による政治を行うようになり、古代国家の成立へと進んでいくのでした。

白石先生の本は、よく読ませていただいているので特に驚く事もなかったのですが、ひとつだけ・・・。

古事記、日本書紀、延喜式の陵墓の記述をピックアップしていくと、安閑、宣化天皇が日本で始めての夫婦合葬であったことがわかります。安閑、宣化天皇は継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ)の間の皇子なのですが・・・。

夫婦合葬は中国、朝鮮半島ではあたりまえに行われていた事ですが、この当時の倭人達には無いことで、妻はお里の地に葬られる事になっていました。

欽明天皇が堅塩媛と合葬されているのは、蘇我馬子による蘇我氏と天皇家の結びつきのデモンストレーションだし、ずっと後の天武、持統天皇の合葬は「血のつながり」「同族意識」で結ばれたものとして倭人の間でもあったことだし、安閑、宣化天皇の夫婦合葬は不思議ですね。

ヲホド王の御一家は、よほど大陸の文化の影響を受けた人たちだったとか、もしかしてそのものずばり・・・・。

そうそう、今城塚古墳は石棺の欠片から棺が3つだったのではないかと言うお話もあったりして。もしかして、継体天皇と三尾の二人の御妃と共に眠っていらっしゃったのでしょうか。うーん、やっぱり継体天皇は謎の天皇です。

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2008年02月28日

畿内の巨大古墳を考える(2)

引き続き フィールドミュージアムトーク 史遊会主催の 古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』から

国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授 広瀬 和雄先生のお話。

「巨大古墳に見る古代人の心性」

JR阪和線の三国ヶ丘駅から百舌鳥駅間、西側にずっと見えっぱなしなくらい巨大な大仙古墳、大林組さんが計算すると、1日2000人の人が働いて完成まで15年8ヶ月かかるそうです。

古代の人達はどういうわけでこんなにも大きな前方後円墳を造ったのでしょうか。

前方後円墳は山の奥の辺鄙な所にあるのではなく、たいてい交通の要所に人の目に付くようにあります。古代人たちが通ったであろう道の傍とか、兵庫県の五色塚古墳のように船の上からよく見える所にあるとか。

そして、前方後円墳だからと言って、いつも前方部分が前だというわけではなく、墳墓によって「この墳墓は東側のこの辺りから見てね」というように見る位置をすごく丁寧に造ってあり、そうでない裏側は適当に造ってあったりして、それぞれの墳墓に正面観があります。

現代に見る古墳はどれも木の生い茂った小山のような姿ですけど、出来た当初は盛土に石が葺いてあって、段々が付いていて段ごとに円筒埴輪がズラーッと並んでいて、それは壮観だったでしょう。

前方後円墳は見るもの、見せるものだったのです。

古墳時代の前期、中期に首長や大王はどのよに葬られていたのでしょう。3世紀から4世紀の古墳から、遺骸は木棺にたくさんの鏡などと共に入れられることで邪悪なものから遠ざけられ、粘土で密閉され、排水施設を設け、保護、密閉、辟邪に力を注がれているのがわかります。

肉体を肉体として保持しようとしているのです。
おそらく、3世紀から4世紀の人達には霊魂観とか、霊肉分離の観念とか、他界観とか無かったと思われます。

それは出土する副葬品からも推測されます。
この頃の副葬品として、

威信財(中国鏡、碧玉製品):権威をあらわす。
 +
権力財(武器、武具):武力
 +
生産財(農具、工具):食料生産 鍬、鎌

などの共同体再生産のための道具が副葬されていますが、土器や須恵器など生活財、個人的な色彩が見当たりません。

首長は亡くなっても首長の役割を果たすため、中国王朝の権威と外的から集団を守る武力と食料生産のための道具を持たされて埋葬されたのですね。
この頃の古代人に亡くなった首長にあの世でのんびり暮らしてもらおうなんて気は全く無く、神となって共同体を守るためもうひと働きしてもらわなくてはならず生活財なんか副葬したりしません。

亡くなった首長に神となって守護してもらうためには儀式が行われます。
山や海の彼方のどこかに、神のコアがあって儀式を繰り返す事で死んだ首長に神を憑依させ、神となって共同体を守護してもらう、そういう共同幻想が前方後円墳祭祀でした。

生きている首長には守りきれない大きな災い、天変地異などから守ってもらうのです。

そうして考えると古墳時代の首長の力といっても古墳の大きなものがあるうちは、それほど強大なものではなかったと思われます。何せ死んだ人の力まで借りないといけないくらいですから。

人々の見える所に前方後円墳を造り、先代の王が神となって守護していると共同の意識として持ち、地方の豪族からも自分達と同じ墳墓を持つ仲間として意識してもらい、しかし墳墓の巨大さで力の圧倒的な差を見せつける。

このような目で見る国家、目で見る王権が3世紀中ごろから7世紀初頭まで約350年も続きました。

最初に見せる要素を含んだ墳墓が現れたのは2世紀後半、弥生時代の後期くらい、出雲の四隅突出型墳墓でした。
6世紀前半頃から、古墳時代の前期中期に見られたように棺の中だけに辟邪されていたものが、玄室壁面全体を装飾する事で石室全体を辟邪するように変わってきます。

同時に須恵器などの生活のための容器、生活財が副葬され始めます。

霊魂観の成立です。

畿内や北部、中部九州で5世紀末から6世紀にかけて霊肉分離の観念が普及し始め、他界観が生まれ、古墳は個人的色彩が強くなり、それでもまだ依然として共同体的な役割を持ちながら、両者のせめぎ合う状態が100年間くらい続きました。

仏教的な他界観が入ってくるのは、それから後の事でした。

いつも古墳や遺跡、出土品を見ながら、何年くらいのものかとか、科学的にどう分析されるのかとか、そんな事ばかり気にしていて古代人の心性なんてほとんど考えていなかったので、たいへん面白いお話でした。

今後、古代における宗教観の変遷が研究されるのを期待したいです。

そうですかぁ・・・前方後円墳に眠る人達は死んでも死なせてもらえず、今でも国を守る役割を果たそうと、その辺りをたゆとうているのしょうか。
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2008年02月27日

畿内の巨大古墳を考える(1)

フィールドミュージアムトーク 史遊会が主催する古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』に行ってきました。

お昼前から夕方にかけて3人の先生方のお話が聴けて、大変充実した1日でした。???[???i?????????j

藤井寺市教育委員会文化財保護課課長 天野 末喜先生のお話。

「倭の五王の墳墓を推理する」

大和の古墳よりも大きな古墳、まさに巨大古墳の名にふさわしい前方後円墳が古市古墳群、百舌鳥古墳群にあります。
大阪に来てJR阪和線に乗られて、三国ヶ丘駅と百舌鳥駅間を通られた方はよくお分かりかと思いますが、この駅間西側にずっと古墳が見えているのです。
仁徳天皇陵とされている大仙古墳なんですが、一駅間ずっと見えてる古墳なんて、何ぼ大和でもありません。?????`?i???_???????j

この大仙古墳を含む古市・百舌鳥古墳群を世界文化遺産に登録しようと大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市が、がんばっておられます。
がんばれ〜〜?????????i?V?????j

とは言え、宮内庁が指定している天皇名と古墳の年代とが合っていなかったり、明らかに天皇陵であろうと思われる古墳が陵墓参考地どまりの指定であったり、実際その天皇が実在したのかという問題も含めてたくさんの問題を含んでいる日本の古墳なのです。

そんな中でも当時の海外、中国の正史、宋書に登場する天皇、倭の五王、5人の古代天皇の陵墓がどれに該当するのか推理してみましょう。

5世紀の中国は北方遊牧民族の勢力に押されて漢民族は南に後退していました。北は北方民族の北魏、南は漢民族の宋、斉、梁となっていきます。南北朝時代です。
その時の宋書に421年から478年の約60年間に5人の倭国王、讃、珍、済、興、武がそれぞれ何年に誰が朝貢して、こんな事を要求してきたとたいへん簡潔に書いてあるのです。
当時、倭国は中国の属国なので認めてもらうように遣使朝貢していたのです。

他に讃と珍は兄弟である、済と興は親子、興と武は兄弟ということが記されています。
たくさんの研究がなされて 珍=反正天皇、済=允恭天皇、武=雄略天皇についてはほぼ一致しています。

讃は履中天皇と言う人がいたり、仁徳天皇と言う人がいたり、応神天皇だったり説が分かれます。
興は安康天皇が多数ですが、定説をみません。

それぞれの大王の墳墓はいつできたの?

宋書に出てくる遣使朝貢の記録から、それぞれの天皇の古墳の完成年を推定してみます。

讃の先代王の墳墓の完成年=413年(讃の最初の遣使朝貢年)の直前

讃の墳墓の完成年=438年(珍の最初の遣使朝貢年)の直前

珍の墳墓の完成年=443年(済の最初の遣使朝貢年)の直前

済の墳墓の完成年=462年(興の最初の遣使朝貢年)の直前

興の墳墓の完成年=477年(武の最初の遣使朝貢年)の直前

武の後の王が遣使朝貢していないので上の方法では推測できませんが、さきたま稲荷山古墳から出土した鉄剣銘を手がかりに武の墳墓は5世紀末に完成したであろうと推定されます。

それぞれの天皇の遣使朝貢年の直前に先王の墳墓が完成したであろうと推定されるのは、

大王は先代の王の古墳を造成して初めて王位継承が認められたと思われるからです。
大王が亡くなると古墳を造って、古墳の上で「これからは神様として集団をお守りくださいね」と亡くなった大王を神にする儀式を行って、次に大王になる人の王位継承を知らしめる舞台装置としての役割が古墳にはあったとされているからです。

それをすませてから中国へ朝貢に行ったのです。

古墳が完成した年はどのようにしてわかるの?

古墳から出土する円筒埴輪や須恵器編年がここ30年ほどでたいへん進展しています。
ある遺跡から出てきた須恵器の近くから木製品が出てきたとします。その木が伐採された年を年輪年代法でわかると合わせて出てきた須恵器の年代がわかります。形や模様を細かく記録して例えばTK47型として記録しておきます。
木製品の他にも、さきたま稲荷山古墳出土の鉄剣のように年代が明記してある物を頼りに、一緒に出土した須恵器、円筒埴輪の年代を推定し形模様を分類するといった細かい作業を積み重ねていった結果、今日では陵墓に治定されている巨大古墳がいつ完成されたか、ほぼ定まっています。

どれが大王の墳墓だかわかるの?

古墳の完成年がわかってきたので、同年代の古墳の中でも大きなものは大王陵です。

斬新なデザインのもので後まで引き継いで行われているような古墳、例えば二重濠がある時出現し、それ以後二重濠の古墳が出現するなど、そういったものは大王陵です。

そうやって大王陵と思われるものをピックアップします。

先ほどの宋書から推定した大王陵完成年と須恵器の型式を合わせてみましょう。
すると、

讃の先代王=TK73

讃=TK216〜208

珍=TK208

済=TK23

興=TK23

武=TK47

これらの型式の須恵器を副葬品として持つ古墳がそれぞれの大王の墳墓として有力となります。
そうすると、

讃の先代王の墳墓    誉田御廟山古墳(応神陵)

讃の墳墓        大仙古墳(仁徳陵)

珍の墳墓  反正天皇  土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)

済の墳墓  允恭天皇  市野山古墳(允恭陵)

興の墳墓        軽里大塚古墳(白鳥陵)

武の墳墓  雄略天皇  岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)

岡ミサンザイ古墳では円筒埴輪の資料は多く、須恵器の資料が少ないですが、TK47型式の須恵器がたくさん出土する軽里4号墳と同型式の円筒埴輪を持っていた岡ミサンザイ古墳を推定されました。

少ないデータの中で倭の五王の墳墓を推理してくださり、大変面白い講演でした。これからの更なる研究と新しい技術で新しい事がまたわかってくるかもしれませんし、陵墓参考地の調査の幅を宮内庁が広げてくだされば、確かな事に近づいていくのでしょうね。

あれこれ推理を楽しめるのは今のうちかもしれません。???[???i?????????j

日本一の巨大古墳大山陵はここ!
posted by charon(amonohi) at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月26日

継体天皇と古代高島-田中36号墳の調査から-市民大学講座

継体天皇の重臣かと思われる人の墓がもしかして九州系の墓?重臣の人に九州の人がいた?なんてニュース記事を以前の記事に書きました。
継体天皇の重臣の墓(過去記事)

それでそのニュースの記事に出てくる田中36号墳についてのお話がありましたので聞きに行ってきました。

講師は 高島市教育委員会 文化財課 宮ア雅充先生

継体天皇はいったいどこの出身の人かというと、近江国 高島の三尾とする説と越前の三国の三尾という説があります。
越前の三尾の地名は流動的なのに対して高島の三尾という地名は古代から実在した地名なので近江国 高島の三尾出身なのではないかということです。

では、日本書紀に出てくる近江国高島郡三尾別業とはいったい何の事でしょう。
別業(なりどころ)とは、別荘の事で三尾にある別荘と言う事です。

で、誰の別荘?

継体天皇の父方は琵琶湖北東部を拠点とする息長氏とされています。
息長氏の拠点のあった琵琶湖北部は鉄鉱石の産出地でした。
その息長氏が湖西の高島に進出してきた時に持った別荘(別業)で継体天皇はお生まれになったのではないかということです。

高島には奈良時代にまで遡る製鉄に関わる遺跡があり、もしかしたら古墳時代にまで遡るかも知れないものです。

佐紀楯列古墳群や古市古墳群の中の陪塚には大量の「鉄てい」が出土する鉄だけを埋葬してあるものがあります。5世紀末くらいまでのもので、外国製の「鉄てい」です。
なので、この頃、継体天皇(即位する前のヲホド王)は国内鉄生産を始めたのかもしれませんね。

JR湖西線の安曇川駅の西側に継体天皇のお父さん、彦主人王(ひこうしおう)の墓とされている古墳、田中王塚古墳があります。
その古墳を囲むように43基の古墳で構成される古墳群になっていて、これを田中古墳群と言います。

彦主人王のお墓は陵墓参考地なので調査は難しいのですが、ここから、少し南東の所に鴨稲荷山古墳という前方後円墳があり、藤ノ木古墳に匹敵するような素晴らしい副葬品が出土しています。

この時期に、この三尾の地で藤ノ木古墳に匹敵するような副葬品が出土する古墳が現れると言う事は、継体天皇に尽力した人達、あるいは三尾氏の族長のお墓ではないかと推測されます。

それで、お話は田中王塚古墳(彦主人王の墓)の周りの田中古墳群の古墳の一つ、田中36号墳に。

墳丘は 直径24m、高さ2〜4mの円墳
花崗岩質の石(比良山系から産出)を面取りした石で構築。
横穴式石室
羨道部、玄室、奥室からなる。
玄室と奥室の間に仕切り石がしてあって、玄室から奥室が見える構造。
奥室に遺体が置かれていて、木棺直葬。
奥室の床面、壁面に赤色顔料(酸化鉄)が塗られている。

遺物
玄室に鐘形鏡付轡、環状鏡板付轡、雲珠、絞具、辻金具等の馬具類

仕切り石に須恵器類
床面敷石 土玉、ガラス玉、耳環等

こんなふうに玄室の奥に奥室を設けるという方法は畿内より北部九州の埋葬の思想としてある事だというお話で、実際そういうのが北部九州から出ているかというとそうではないという事でした。
ちょっと、過去記事のニュースの内容とは違っていました。

先生によって、そうおっしゃる先生もいらっしゃるという事でした。

継体天皇の重臣に九州の人がいたかどうかは謎のままですね。

ところで、彦主人王の墓とされている田中王塚古墳ですが、元々は円墳だったものを明治時代に造り出し部分を造ったのではないかという説があります。

このような例は他にもありまして、羽曳野市の雄略天皇陵と指定されている古墳は元々直径75mの円墳だったものに、あとから細長い二等辺三角形の前方部を付け足したものです。
雄略陵が円墳ではおかしいと思ったんでしょうね。

それと、この前、方形周溝墓群を見に行った近くにある倭彦命陵とされている古墳は元々一辺が85mの方墳だったものを前方後円墳に作り変えています。

こういったことは幕末から明治にかけて行われていて、後の時代の者が、ちょっと見てわかるようなごまかしや捏造はホント恥ずかしいから今後は絶対しないで欲しいと思います。・・・しないでしょうけどね。?????C???i?????j

takashima1.jpg
takashima2.jpg
←高島市教育委員会 文化財課 高島古代史探訪ガイドマップ 継体天皇伝承地を歩く

彦主人王御陵と田中古墳群はここ!
posted by charon(amonohi) at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月23日

オジー・オズボーンって人は・・・

特に歌が上手いわけでもなく、ステージパフォーマンスが素晴らしいとも思えないのに、妙に魅かれるロックスターがいます。
オジー・オズボーンなんです。

オジーと言えば若くして亡くなってしまったランディ・ローズと言うギタリストのことを思い出します。素晴らしい才能に恵まれ将来が期待されたギタリストでした。

ランディ・ローズがオーディションでオジーの前に現れた時、オジーはすっかりお酒に酔ってしまって眠っていたのでしたが、ふと目を覚ますと天使が舞い降りて来たではありませんか。それがランディ・ローズでした。
飛行機事故で25歳の短い生涯を閉じられたのはクラッシックギターの勉強を本格的に始めようとする直前の事でした。

本当に惜しいギタリストを亡くしてしまったと思います。
でも、後にジェイク・イー・リーのようなドッシリした感じのギタリストやザック・ワイルドのような派手なギターパフォーマンスの人の方がオジーには合うような気がして、何だか見ていてホッとするような感じがしました。

オジーの横には天使のような繊細な感じのギタリストは、ちょっとバランスが悪いように、今になって思います。亡くなった当時は残念で悲しくて仕方ありませんでしたが。

Mr Crowley / Ozzy Osbourne


アレイスター・クロウリーと言う魔術師の事を歌ったこの曲、私はオジーでなきゃ嫌なんです。今、どなたかカバーしているのでしょうか。私はこの曲はオジーだけに歌っていて欲しいと思っています。大好きな曲です。
ギターはザック・ワイルドです。半分過ぎたあたりでオジーに顔面ペシッ!されてます???[???i?????????j
このくらいの派手な動きでないと、オジーったら手を叩きながらステージを右、左と熊みたいにウロウロしているだけなんですもん。

Zakk Wylde Solo -Live At Budokan2002


ランディ・ローズの再来かと言われた頃のような線の細い感じはなく、腕のふっといオッサンに成っていますが、安心して聴いていられる素晴らしいギターソロです。

ザック・ワイルド オフィシャルサイト

オジー・オズボーンは本当にギタリストに恵まれた人です。
posted by charon(amonohi) at 01:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月22日

般若寺

奈良豆比古神社の前の南北の坂、奈良坂を南へ下ると左手に般若寺があります。
般若寺は飛鳥時代に高句麗の僧が創建したお寺です。
平重衡による南都焼き討ちにあい焼け落ちてしまったり、その後も火災や兵火に遭ったり、廃仏毀釈でえらい目に遭ったり・・・。

何度も廃寺同然に荒れ果ててしまうのですが、不死鳥のように甦るお寺です。
romon.jpg

バランスの取れたカッコの良い楼門は鎌倉時代に建てられました。
国宝です。

zyusan.jpg十三重石塔(重要文化財)平城京の鬼門鎮護のために聖武天皇自筆の大般若経を納めたそうですが、南都焼き討ちの時に焼失してしまったのかもしれませんね。
鎌倉時代、民衆と共に十三重石塔が再建されました。









sotoba.jpg


笠塔婆 十三重石塔を建てた宋の石工、伊行末の息子・伊行吉によって建立されたました。重要文化財

suisen.jpg
般若寺は花のお寺ですね。 今の季節は水仙が咲き乱れていますが、以前に秋のコスモスの季節に来た事があります。コスモスは背が高いので境内がコスモスで埋もれてしまうようになってしまいます。

コスモス寺として有名ですが、今頃の水仙、4月には山吹、6月には紫陽花、一年を通してお花の咲くお寺です。


heiwa.jpg
何度も何度も戦火に遭い、大戦という大きな時代の流れにも巻き込まれ、荒れてしまったりもした般若寺。もう二度と争いごとが起こりませんように。平和の塔には広島と長崎の原爆の火が灯っています。

般若寺はこちらです。
posted by charon(amonohi) at 20:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月21日

奈良豆比古神社

奈良県庁前の国道369号線を北へ折れて転害門の前を通り、途中から国道を外れて坂道を登っていきます。
少年刑務所の方へ行かずに右側の道を行きますと「北山十八間戸」があります。夕日地蔵の前を登ると右手に般若寺があり、そのままひたすら登っていくと奈良豆比古神社が左手にあります。

mametsuhiko1.jpg


平城宮での最後の天皇、光仁天皇のお父さん、施基親王が病気療養のために隠居した場所です。
毎年秋祭りの宵宮10月8日に奉納される「翁舞」は重要無形民俗文化財。一度見てみたいです。

この神社には樹齢1000年を超える巨樹があります。

kusunoki1.jpg

目通り幹周り 約7.5メートル
土際の幹周り 約12.8メートル
樹高 約30メートル
枝張り 20メートル
樹齢 1000年以上

とありました。すごいexclamation
大迫力でした。

kusunoki2.jpg

「うん、うん、あんたが頭の中でいつも思い描いてる大昔の人達、ぜ〜〜んぶ知ってるよ〜」って言ってるみたい?????????i?V?????j

巨樹の周りは宮崎駿の雰囲気でした。

奈良豆比古神社はこちらです。
posted by charon(amonohi) at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

奈良時代を支えた人達

明日香の藤原京から平城京に遷都したのは元明天皇の時でした。
元明天皇は女帝で、草壁皇子の妃、文武天皇、元正天皇のお母さん。
持統天皇が即位させたかった草壁皇子が即位前に亡くなってしまったので、持統天皇が即位して、文武天皇が成長して即位するまでの間を繋ぎました。

その後文武天皇が亡くなった後、文武天皇の皇子である首皇子(後の聖武天皇)が成長して即位するまでを元明天皇、元正天皇という二人の女帝が即位して繋ぎました。

藤原京の最後くらいから平城京遷都、奈良時代にかけては大変ですね。
天皇や皇子が早くに亡くなって跡継ぎ問題が大変な事に・・・。
藤原氏と皇親勢力との間の権力争いも見えてきます。

genmei.jpg


元明天皇奈保山東陵:「刻字の碑」を立てることを命じて亡くなったのですが、その碑は奈良豆比古神社境内に建てられていたそうです。今は御陵の上に移されています。

gensyo.jpg


元正天皇奈保山西陵:元明天皇と同じく火葬されています。元明天皇のすぐ近くに母娘並ぶように眠っていらっしゃいます。

syomu.jpg


聖武天皇佐保山南陵

koumyou.jpg


聖武天皇皇后佐保山東陵

何となくこのご夫婦が好きです。
ちょっと神経質な夫とおじいさん(鎌足さん)譲りのバイタリティあふれる妻???[???i?????????j

法華寺-光明宗・総国分尼寺-1(過去記事)

千人洗垢伝説も本当かもしれないと思える皇后様です。

元明天皇奈保山東陵・元正天皇奈保山西陵はこちら
般若寺、奈良豆比古神社のある坂道を登りきって国道754号を北西方向に下って行って左に折れ下り坂を行きます。ちょっと探しました?????????i?????U?????j

天武天皇佐保山南陵・天武天皇皇后佐保山東陵はこちら
新大宮の駅下車北側の佐保川沿いにひたすら歩いていくと東大寺に近づく頃たどり着きます。佐保川の桜は素晴らしいので、桜の季節にもお花見がてらふらりと散策するとあっという間ですね。
ご夫婦仲良く眠っていらっしゃいます。
posted by charon(amonohi) at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月18日

奈良でサンテレビが放送されても良いでしょ!在阪局さん!!!

2011年から地上デジタル放送に移行しアナログテレビ放送は終了するのですが・・・。
総務省 地上デジタルテレビ放送のご案内

今使っているテレビも一度故障したものの、修理後は調子良く見れているので地上デジタル放送にあまり興味がなかったのです。

どころが、ある所である事を知りビックリしました。
我家は現在ケーブルテレビ(マルチチャンネルでない)でアナログ放送を見ているのですが、在阪UHF局であるKBS京都、テレビ大阪、サンテレビ、奈良テレビが試聴可能なのです。

ところが、2011年以後アナログ放送が終了して地上デジタル放送になると・・・
サンテレビが見れないexclamation?~2

他のUHF局、KBS京都、テレビ大阪、奈良テレビは見れるのですが

サンテレビだけが見れないexclamation?~2

KCNケーブルテレビ

KCNデジタル放送のご案内

私たち夫婦は虎党です。阪神タイガースのファンです。
夏場はナイターが一日の疲れを癒す楽しみなのです。

うーん、でも地上デジタル放送の良いところは、同じ局で同時間帯に2〜3番組を放送できるので、今までのようにサンテレビ→朝日放送→サンテレビのリレー中継で見なくても朝日放送さんで最初から最後まで見れるかもしれません。ドラマの裏とか古館さんの裏とかでね。

でも・・・
「熱血!タイガース党」が見れないじゃないexclamation?~2

たまにやる
「虎辞書ナル」が見れないじゃないexclamation?~2

これはいかな事かとケーブルテレビのKCNさんに聞いてみましたところKCNさんは放送したいのだけど、兵庫県の局の放送を奈良まで放送するのには在阪他局が難色を示しているということなんだそうです。

在阪他局といいますと

MBSさんとか、朝日放送さんとか、発掘!あるある大辞典でお馴染みの関西テレビさんとか、 よみうりテレビさんとか、そういった所でしょうかねぇ。

在阪他局さん???????i?????j

一部の局なのか、全部の局なのか知りませんけど、そんなちぃ〜〜さい事を!底意地の悪い事を! おっしゃっていないで、奈良に住むケーブル視聴者にもサンテレビを見せてくださいexclamation?~2

お願いしますm(__)m

ほんまに・・・インターネットで地球の裏側の情報まで仕入れられるってのに兵庫県から奈良があかんってどういうことやねん・・・?????i?{???????j

・・・・ブツブツブツ
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2008年02月16日

歴史Web 2000年前からインターネットがあったら

テクノラティ グラフ: キーワード「歴史Web」に関するグラフ
2008年1月31日 注目の話題
歴史Web
「インターネットは2000年前から存在していた!」という設定で、日本史上の人物や事件をインターネット風にまとめた本「歴史Web―日本史の重大事件がホームページになった!」が日本文芸社から出版され話題となっている。
「歴史Web」では、歴史上の人物が書いたブログや歴史上の事件を記録した掲示板スレッドなどを紹介。「2000年前からインターネットは存在していた」という設定で、紹介されている内容も、清少納言ブログ「枕ぶろぐ いとをかし」や、本能寺の変の前日に書いた明智光秀の日記が炎上したり、関ヶ原の戦いの様子が実況スレでリアルタイムで速報されるなど、歴史上の人物、事件などを、うまくWebサービスに置き換えて紹介した一冊となっている。
ブログ界では、「仕込んであるネタが細かくて面白い」「Webでこういうことやってる人いないかなと思ったら、いた。」という記事や、本を読んだ感想などが語られている。
過去90日間に書かれた、歴史Webを含む日本語のブログ記事
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日本文芸社

オモコロ|偉人ブログ
歴史上の人物の訴えや心の叫びを綴ったブログ

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ちょっと面白そうで欲しくなってしまった本です。
歴史上の人物がネットでブログを書いているのですが、明智光秀のブログが本能寺の変の前日に炎上するなんて、どんなコメントで荒れまくっているのか是非読んでみたいです?????????i?????U?????j



邪馬台国オフィシャルサイトができたとあるそうですが、古代史ファンとしては、大化の改新あたりの事や壬申の乱のことなども書いてあると嬉しいのですが、どうなんでしょうね。

「最近どいつもこいつも地方豪族のぶんざいで巨大古墳ばっかり造ってexclamationどっちが大王だか分からないじゃないのexclamation?~2
って、ヤマト王権ブログで愚痴る・・・とか?????[???i???j

「今日久しぶりに大王と狩猟に出かける。しかし、若い頃はあれほど自在に野山を駆け巡り弓を射り狩猟を楽しんだのに、うっかり落馬してしまった。こうしてブログを書いていても痛みで耐えられない。しばらくブログをお休みします。」と書いた後に帰らぬ人となってしまった藤原鎌足さんとか。

以上は私の妄想です?????[???i???j

古代人のブログを想像するだけでも楽しいな???[???i?????????j
posted by charon(amonohi) at 21:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

ゲーム機が医療などに役立っている



ソニーのプレステ3などのゲーム機に使われているセル半導体が高画質画像の処理が出きることから、科学や医療に利用されているようです。すごいですね日本のゲーム機。

任天堂Wii(ウィー)は、CMであの体重計みたいな板に乗っかって体重やら体脂肪やら管理できたり、動作する事で遊べたりするのを知った時は、医療にも利用されているに違いないと思ったものですが。

プレステ3を16台もつなげてブラックホールの計算している学者さんたちを想像するのも何だか楽しいです???[???i?????????j

高画質を処理する能力が高いので低価格のスーパーコンピュータとして計算して、主にシュミレートや研究に使われているようです。

何がどこで役に立つやら分かりませんね。????????
posted by charon(amonohi) at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | 更新情報をチェックする

2008年02月14日

FLO:Q ブログパーツキャンペーン当選する

今年は何だか妙についているのです。
年初めから、諦めていた事が2つ成就しまして、そして今日は前に応募していたキャンペーンのプレゼントが当選していた事に気がつきました。
ここ1週間ほど実家のいろいろでメールのチェックもちゃんと出来ていない状況なので、わざわざソニーさんが当選メールを再送してくださっていました。

ごめんなさい、ソニーさん。お手数おかけしました。

昨年、アバウトミーのLastfm キャンペーンのプレゼントに当選した時は、くじ運の悪い私でも当選する事があるのだなぁと、つくづく感心したものですが・・・。

今回もブログパーツキャンペーンでのプレゼントです。
FLO:Q(フローク) というソニーさんがやってるブログパーツなんですが、このブログの右サイドバーに貼ってある蓮の花の写真(私撮影)をはめ込んであるやつです。

PlayLogのリストやらRSSやらFlashやら動画やらPodcastやら、一つのブログパーツで見れるようになっていて、キャンペーン期間中に貼っていたので応募して当選したわけです。???[???i?????????j

FLO:Q ブログパーツキャンペーン

で、何が当たったかと申しますと C賞の「ディズニーペアチケット」なんです。
5組10名様当選なので、とても嬉しいです。?????????i?V?????j

でも、私たち夫婦、ディズニーランド・・・行くかなぁ。
今のところ、甥っ子の大学進学祝いにプレゼントしようかと考え中なのです。

もし甥っ子にプレゼントしたら誰とペアで行くのかなぁ。
彼女だったりして・・・。

居るのかなぁ、彼女・・・。????(????)
posted by charon(amonohi) at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

母、再入院

実家の良い知らせ(甥の進路が決まりそう)と同時に悪い知らせも入ってきました。
昨年暮れに大腿骨骨頭の手術をして無事退院した母ですが、今度は別の病気で再入院する事になりました。
大腿骨骨頭の時の退院直前に熱が出て退院が延期になった事があるのですが、その時の発熱の原因が今回の病気です。

ここ数年の間に、まるで「もぐら叩き」のように治っては別の病気を発症して入院を繰り返しています。
そうやって寝込む事が多くなるにつれ、最近は少し会話があやしいです?????`?i???_???????j

私が母との電話での会話で気がつくのは1割弱くらいの「おかしさ」なのですが、一緒に暮らしている弟は、かなり頻繁におかしいと気づくようです。弟はけっこう気が短い方なので、そのせいで母も気を使って結果おかしな会話になるのではないかとも思っているのですが。

とにかく弟には、あまり母を叱らないようにして欲しいとおもうのですが、疲れているときは、仕方が無いのかなぁ。少し心配しています。

母は、おしゃべりが好きなほうで、ご近所さんとも割と繋がっているようです。お見舞いに行くと、幼馴染の近況をいろいろ教えてくれます。
○○君のお嫁さんは、○○君のおばちゃんが自慢するメチャメチャ出来た良いお嫁さんだったのだけど、同居したとたんにこの世に二人と居ない鬼嫁になってしまった話とか、△△さんは子ども3人つれて出戻ったとか・・・間接的に聞く幼馴染の近況は懐かしいやら驚くやら。

こうやって情報のアウトプットをしてくれている時の母の会話は、少しもおかしなことはなく、むしろ内容が面白くしっかりしているのです。

ヘルパー2級の講習を受けていた時に聞いた話ですが、今のお年よりはテレビやラジオからたくさんの情報をインプットされていますが、アウトプットする機会が減っています。高齢者にアウトプットしてもらい、頭の働きを良くしてもらいましょうと。

情報はインプットしたら、アウトプットもする。
これが頭の働きを衰えさせない脳トレーニングです。

実は、私がいろんな所(主に興味のあることですが)に行ってお話を聞き、ブログに書くのはこのトレーニングの一環でもあります。”うつ”やってますので特に気をつけています。

しばらく私のアウトプットは母の事で滞りがちになりそうですが、できるだけ書くようにします。
posted by charon(amonohi) at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

キューバのコンガ



キューバのコンガ奏者で「キング・オブ・ドラム」と呼ばれたタタ・ウィネスさんが亡くなられました。
国民的スターだったんですね。ものすごい数の参列者です。


Tata Guines / Manteca ドラムの王様のプレイです?h?????n?[?g

コンガとかキューバと言いますと80年代にとても有名になった曲を思い出します。ドラムの神様タタさんとはちょっと違って、キューバからアメリカへの移民、グロリア・エステファンという女性ボーカリストのバンドでマイアミ・サウンドマシーンの曲、「コンガ」です。


Gloria Estefan & Miami Sound Machine - "Conga"

タタ・ウィネスさんのドラムもマイアミ・サウンドマシーンの曲も何だか体が自然に動き出しますねぇ。ラテン・ミュージック、熱いです?????????i?????U?????j
posted by charon(amonohi) at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

月日のたつのは早いもの

甥の進路が決まりそうです。
思い返せば、3歳か4歳の時に私と結婚するのだと言ってくれていたかわいいかわいい甥っ子が今春から大学生になります。

ついこの間、お父さんに大声で叱られてブルブル震えていた小さな男の子が、もうお父さんの身長を追い越してしまいました。
私に子どもが無いせいか本当にかわいいのです。

私の父は職人だったのですが、弟も職人気質っぽいところがあって、一応雇われてはいるのですが、雇用関係が逆じゃないかと思われるような強く出るところのある人間です。
そんな人間にでも是非仕事をしてくれと言ってくださるのは、本当にありがたいことです。

甥も人に雇われるよりは自分でやって行きたいと思っているらしく、それはそれで大変な事なので、小さい頃の頼りなげな甥しか知らないおばさんとしましては、とても心配です。
弟(父親)の良い所を引き継いで、ガンガン我まま言っても是非仕事をと言ってもらえるよう技量を磨き、良い人間関係を築けるようずっと願っています。

がんばれ〜〜???[?^?[?X?|?[?c
posted by charon(amonohi) at 23:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月09日

雪積もる日

朝起きて朝食の支度をしている時は確かに雪など積もっていなかったのです。食事中に「雪、降ってきたわ」と言ってるうちに、あれよあれよと言う間に積もってしまい、お昼前には結構な雪道になってしまいました。

スーパーへの行き道もシャーベット状に溶けた道の真ん中の部分が、帰り道にはシャーベットの上に新たに積もって雪の上をサクサク帰ってくることになってしまいました。

今日は土曜日、クラブの練習から帰ってきた中学1年生くらいの男の子達が変わりかけの声で数人がキャーキャー言いながら、足で雪の感触を確かめるように踏みしめ、じゃれあっていました。

自宅の近所も小さい子ども達が大はしゃぎです。
この子達、生まれてから自分のうちの周りに雪が積もるのを何回見たことでしょうね。

昔は大阪でも年に何回かは積もったなぁ〜。

yuki1.jpg
水仙も見る間に雪が積もり始めました。
がんばれナルキッソスexclamation来月はお水取りだexclamation?~2
この後どんどん積もり、水仙が埋もれてしまいそうでした。

yuki2.jpg
近所の子達の大はしゃぎにつられて、おばさんもスノーマンを作成してみました。

今日は本当は明日香村で「真弓鑵子塚古墳」の現地見学会の日だったのですが、行けませんでした。説明会はなく見学会だけだし・・・
6世紀中頃の大型横穴式石室、見てみたかったけど、こんな雪の日は家で雪だるま制作に限ります??
posted by charon(amonohi) at 17:01| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

樟葉宮造営1501年講演会(3)「動揺する王権」

引き続き、立命館大学名誉教授 山尾幸久先生のお話「動揺する王権〜雄略と継体の間」です。

日本書紀、継体大王の段には大王のお母さんがどうだとか、倭彦王に最初にお願いしたけど逃げられちゃったとか長々と書いてありますが、古事記には簡略に書かれています。

「袁本杼命(をほどのみこと)を近淡海国より上り坐さしめて、手白香命に合わせて天の下を授け奉りき」

近淡海国よりやって来た袁本杼命はどんな人でしょう。

彦太王(ひこふとおう)と言うのが実名ですが男の子によく付ける名前「太」「ふとしくん」なんですね。丈夫な男の子と願いを込めてつけられたのでしょう。袁本杼命は男大迹王(おほどのおう)とも書いたりします。この「おほど王」「をほどの命」の「ほど」とは「火床」で「炉」のことです。近江北部の鉱石による鉄素材生産の経営をやっていた製鉄王だったのです。

その上に朝鮮半島から日本海を渡り、琵琶湖淀川水系を大動脈として瀬戸内海を結ぶ広域物流ネットワークを掌握する物流王でもあったのです。

しかも、東海地方で大きな力を持っていた王者として今後の研究が期待される尾張氏とも婚姻関係を持っていました。

よく資料として出てくる隅田八幡神社の人物画像鏡(和歌山県 橋本)の銘文があります。この銘文を山尾先生は

503年8月、日十大王(ヲシ大王=仁賢大王)の代に孚第王(ふと王=彦太命=継体大王)が意紫沙加の宮(大和、桜井の忍阪宮)にいた時、百済の武寧王、斯麻が二人の使いを送って期待を寄せている事を伝えた。

この銘文の解釈は諸説ありますが、山尾先生は上記のように解釈されています。

507年、継体大王即位ですから、これだと即位する前から大和に居たことになり、よく言われる継体大王の謎の一つの「なかなか大和に入れなかったのはなぜか」と言うのは吹き飛んでしまう解釈です^^;

502年に百済の斯麻王(武寧王)は即位し、翌年503年に「おほど王」に期待してる旨伝えて来て、505年に斯麻王は自分の子を「おほど王」に仕えさせています。

思えば高句麗の南下政策のために攻められて、いったん滅亡したようになってしまった百済ですが、雄略ヤマト王権が支援し復興してきました。今後もこうした関係を期待していますと次の大王になるであろう「おほど王」に伝えてきたのでしょう。現にその後継体大王は百済よりの政策をとっています。

503年には既に「おほど王」が居たとされる忍阪宮は近江息長氏(おうみおきながし)縁の地です。樟葉宮(くすばのみや)筒城宮(つつきのみや)弟国宮(おとくにのみや)は継体大王が即位する前から持っていた経営基盤、経営拠点ではないかということでした。それぞれに宮があったかどうかは・・・分からないそうです。

せっかくの樟葉宮造営1501年記念の講演会に山尾先生は何て事をおっしゃるのでしょう^^;  でも、拠点だったと言う事は、きっとお住まいでもあったと思います。大王のお住まいは宮だから・・・宮だった・・・と思いたいですよね。

継体大王はヤマト王権からはもとより国際的な関係でも期待されて生まれた大王で、王族だったか豪族だったかなんてスケールではなく、どこに宮があったかなんてどうだっていいくらい広い地域に力を持っていたこの時代の覇者なのでした。

雄略大王から継体大王の間の時代は、吉備や磐井に対しては武力を用いて、近畿周辺の近江や播磨では政略結婚でもって吸収合併して倭人種族を統合し国土統一を行い、村落首長級の者達や豪族の台頭による社会秩序の緩みを制度の改造により行いました。また、確立した専制王権を安定的に持続させるために、2代の入り婿でワニ氏や葛城氏とは全く関係のない超越的な大王を造り出し、それまで能力主義的に選出してきた大王を血族主義で安定的に代々繋げることに変えていきました。

雄略大王で確立した専制王権を持続させるため、本格的な国家建設に向けて、今までの方法や制度を大きく変えていった時代でした。

posted by charon(amonohi) at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月07日

樟葉宮造営1501年講演会(2)「動揺する王権」

樟葉宮造営1501年講演会で「動揺する王権〜雄略と継体の間」山尾幸久先生(立命館大学名誉教授)のお話を聞いてきました。

発掘現場の先生方のお話と違って、いろいろ踏み込んだ所までほぼ断定的にお話されるので、驚くやら面白いやら・・・。おかげで帰ってきて復習するのに2〜3日頭の中が5世紀から6世紀になってしまいました。

古代日本の王権は4世紀後半、仁徳天皇から形成が始まりましたが、雄略天皇の時代、約24年間に専制王権の確立がなされました。と同時にこの時代は欽明天皇から本格化する国家機構建設の胎動期でもありました。

日本で最も古い君臣関係の成立、関東の豪族や九州の豪族を大王の宮廷に来て仕えさせる事の慣習化など大王の絶対優位を確立したり、移住系有力者による宮廷職務の組織化、移住系生産組織を権力の基盤にしたりと、雄略大王はとても大きな事を成した大王でした。

雄略大王の没後、しばらくは飯豊皇女が執政していましたが、その後、継体大王即位まで、たった15,6年間しかないというのに清寧、顕宗、仁賢、武烈の4代即位して、しかも子供がいない人が3人というのは異常であり、実在性までは否定できないが即位したかどうかは疑われます。

清寧は顕宗、仁賢の擁立を、武烈は継体大王の擁立を必然視、正当化するために加えられたものと推測され即位したかどうかは疑わしいのです。

顕宗、仁賢の二人の大王のお話は、日本書紀にとてもドラマチックに描かれています。雄略大王は市辺押磐皇子を殺して即位したのですが、その皇子の子、兄弟二人(オケとヲケ)が身分を落として暮らしていた所を発見され、めでたく皇位を継承するという貴種流離譚なのです。

ところが、この2皇子が市辺押磐皇子の子であるという血縁系譜の信憑性は裏付けがありません。

「古事記」という書物は天武天皇自らが最終的に決済したもので、けしていい加減なものではありません。父系と母系の血縁についてとても神経質な書なのだそうです。その「古事記」に母が不明であるのが、この2皇子の母と継体天皇の母だけです。また2皇子は履中天皇の孫にあたるのですが「古事記」の履中天皇の段に市辺押磐皇子は書いてありますが、オケ・ヲケ2皇子には触れてありません。他にも飯豊皇女を2皇子の妹としたり叔母としたり、2皇子の母を手白香皇女としたり信憑性が疑われるのです。

このオケ・ヲケの貴種流離譚は、何か歴史的に特異な事実に基づいて創作された歴史劇と考えられます。宮廷で人気があり何度も上演された歌と舞を伴う歴史ドラマであろうと、ほぼ断定して間違いないところまで研究されています。

では、歴史的に特異な事実とは何でしょう。

雄略大王が亡くなった後、星川皇子の乱が起こりました。星川皇子は雄略大王と吉備稚媛との間の子で皇位に就こうとしたのですが、群臣に阻止され、この時に吉備氏から「吉備の山部」を接収されたのです。「山部」というのは鉄素材の生産集団です。

その吉備から召し上げられた山部を統括する仕事、山部連をオケ・ヲケを発見した播磨の人物が拝命したというのが山部連氏の始祖伝承です。

鉄素材生産を管轄していた山部連、星川皇子の乱後、鉄製品をヤマト王権に提供してきた播磨の大豪族の中から(オケ・ヲケのように2名の人物ではなく実際には1名)雄略大王の娘に婿入りさせた話が山部連始祖伝承を基にした貴種流離譚となって伝えられるようになったのでしょう。

山尾先生は5世紀末以前は豪族の中から能力のある者が皇位を継承する、能力主義、地位継承系譜でしたが、6世紀半ば以降、欽明天皇以後は血縁主義、血縁継承系譜に変わったのだとお考えです。ですから、倭の五王かと言われる仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略は直接の血縁関係がないとお考えです。

ちょ、ちょっと驚きました・・・。継体大王が応神大王の5世孫というのは、後から作った事かもしれないと思っていましたが。

それで、雄略大王の時に専制王権が確立し本格的に国家建設に入る前に皇室の女性、儀礼を執行する最高司祭者である皇室の聖なる女性を主体として超越的な「血」を作り上げようとしたのが、この時期の2代重ねた入り婿であったというわけです。

1回目は上記の播磨の大豪族からの入り婿。そして2回目は近畿北部に大きな力とネットワークを持っていたオオド王、継体大王が婿入りするのでした。

かくしてヤマトの豪族ワニ氏でも葛城氏でもない、超越的な王、欽明大王が誕生したのです。倭人種族の統合を成し、欽明大王以後は血族主義、血族継承系譜に変わっていき揺るぎない国家の建設へと踏み出していくのです。

では、継体大王とは、どんな人物だったのでしょう。

また続きを記事にします。

posted by charon(amonohi) at 14:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする

2008年02月05日

アイアン・メイデン来日2008



アイアン・メイデンいよいよ、来日まで10日ですね。
今回の来日は 
2/15 Fri : パシフィコ横浜 国立大ホール
2/16 Sat : 幕張メッセ NO.3ホール

という事で関東だけですね。コンサートいける人、羨ましい?????????`?i?????????j
かつて、ハードロックが下火になってパンクロックの波が押しよせ、いい加減パンクロックに飽き飽きしていた頃、NWOBHM(ニューウェイブ・オブ・ブリティッシュ・へヴィ・メタル)という新しい波がやって来たのでした。
「やったー!またハードロックが楽しめる」へヴィ・メタルなんて呼び方になったけど私にとって、「そうそう、この音の厚み、ヴォーカルの歌唱力、アリーナで通用する技量」嬉しくて仕方が無かったのを思い出します。

とは言っても、アイアン・メイデンも初期の頃は、もう少し軽い感じでパンクロックぽかったのですが・・・。
ヴォーカルがブルース・デキンソンになってからで、ギターのハーモニーが美しいこの頃からのメイデンが大好きです。


コンサートに行けなくていじけている私は、ゲームでもしておきます?o?b?h?i???????????j

http://emichrysalis.co.uk/ironmaiden/differentworldgame/

http://emichrysalis.co.uk/ironmaiden/game/
↑メイデンゲームをお楽しみください。
posted by charon(amonohi) at 12:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年02月04日

樟葉宮造営1501年講演会(1)- 千歳車塚古墳 -

枚方市にある「ラポールひらかた」で開催されました講演会に行ってきました。
亀岡市教育委員会の中澤勝先生と立命館大学名誉教授 山尾幸久先生のお話でした。

はじめは、亀岡市教育委員会の中澤勝先生のお話で「千歳車塚古墳と倭彦王の墓」
5世紀の終わりの頃、継体天皇が即位される前のお話です。
武烈天皇に子供が無く困り果てたヤマト王権は丹波の国の桑田群においでになる倭彦王に「大王になってもらえませんか」と軍を引き連れてお願いにうかがったのですが、倭彦王は恐れて山中に逃げ込んでしまわれました。

そんなお話が日本書紀に書かれている倭彦王。
倭彦王は実在しなかったと言う先生もいらっしゃいますが、では、丹波の国の桑田群に残る古墳からこの地域の豪族の姿を少し探ってみましょう。
1983年に国の史跡に指定された「千歳車塚古墳」
近畿の同じ時期にできた伝統的な前方後円墳の中でも屈指の古墳で大きな力を持った王であった事でしょう。きっと大伴金村が次の大王にと白羽の矢を立てたとしてもおかしくないような。

高槻市に今城塚古墳というほぼ継体天皇陵として間違いない古墳があるのですが、はじめこの今城塚古墳のタイプを新型タイプの「剣菱型」千歳車塚古墳を旧タイプの「片直角型」とみて二つの古墳の被葬者が対抗する勢力どうしという考え方がありましたが、2001年からの調査で千歳車塚古墳は二重の周濠を持つ古墳である事が分かり「片直角型」の古墳ではありませんでした。また、今城塚古墳の「剣菱型」というのも地震によってできたものとわかり、あやしくなってきました。

そして、二つの周濠の間にある堤から人物埴輪(巫女さん?)の肩と腕の部分が出土しました。
この埴輪を分析してみると、今城塚古墳から出てきた埴輪と同じ所で生産された物とわかりました。
その生産場所とは、高槻市の新池遺跡で日本最古で最大級のヤマト政権直轄の埴輪工場です。

以上のことから「千歳車塚古墳」と「今城塚古墳」の被葬者は密接な関係にあり敵対する勢力ではなかったと考えられます。

千歳車塚古墳の被葬者は大きな力を持つ丹波桑田の王であり、ヤマト王権を支えた首長だったことでしょう。日本書紀に出てくる倭彦王であったかどうかは謎のままですが。


千歳車塚古墳はここ!
posted by charon(amonohi) at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 遺跡・神社・寺 | 更新情報をチェックする