古代史フォーラム2008 『畿内の巨大古墳を考える』
奈良大学教授・近つ飛鳥博物館館長 白石太一郎先生のお話。
「巨大古墳群の終末と古代国家 −古市古墳群の終焉と王権の動向−」
日本の古代国家が成立するのは、国家が民衆を直接掌握するようになってからのこと、7世紀末、古代律令制が成立して古代国家の成立とすべきであると言う白石先生のお考えです。古市古墳群に巨大な古墳が造られなくなって、古代国家が成立するまでの間はいったいどんなふうに王権は変化していったのでしょう。
天野末喜先生が午前中の講演「倭の五王の墳墓を推理する」で岡ミサンザイ(現仲哀陵)を雄略天皇陵に当てて考えておられたのですが、白石先生も同じお考えで、この雄略天皇陵であろう岡ミサンザイ古墳以後は大きな古墳は造られなくなりました。
吉備地方で5世紀に大きな前方後円墳が3つ造られるのですが、5世紀後半では造られなくなっています。
その雄略天皇の時代には治安行刑職(物部)が成立したり、関東や九州の豪族を大王の宮廷に来させて仕えさせることが慣行化したり、諸豪族に対して大王の絶対優位が確立した時代でした。
雄略天皇が亡くなられた490年前後の5世紀末を境に、古市古墳群にある岡ミサンザイ古墳を最後に大きな古墳が造られなくなったと言う事は、雄略以前より大王の権力が大きくより確立したものに変化していったのです。
6世紀に入って継体朝が成立します。継体天皇の御陵は高槻市にあります今城塚古墳としてほぼ間違いないとされていますが、皇后である手白香皇女のお墓は大和古墳群の中にあります。3世紀代の古い古墳に囲まれて、ひとつ6世紀の墳墓としてあります。宮内庁の指定では西殿塚古墳となっていますが、この古墳も3世紀の古いもので、一基だけ前方部を北に向けている6世紀に造られたとされる西山塚古墳が今では手白香皇女のお墓であろうとされています。今城塚古墳によく似た前方後円墳で、埴輪はあの新池遺跡製なのですから。
「手白香皇女は間違いなくヤマト王権を築いた始祖達の末裔なのです」と後々まで伝えるかのようにヤマト王権始祖達の墳墓群の中で静かに眠っておられます。継体天皇に続く欽明天皇(手白香皇女がお生みになった皇子)への皇位継承の正当性を訴えるように。
6世紀の大王陵は大王を支えた有力豪族の本拠地に造られるようになります。継体天皇陵も三島の辺り、淀川水系にいた有力豪族が継体天皇を支えたのでこの地に造られたのでしょう。この事は大王の権威が確立していったために、在地性を持たなくても大王として成り立つようになったということで、5世紀以前と王権のあり方とは変化が見られると言う事なのです。
古市古墳群のように巨大な古墳は次第に消えると同時に大王の権威は確立していき、それぞれの大王を支えた有力豪族の地に墳墓を造るようになりました。確立した大王の権威と畿内の有力な豪族の合議制による政治を行うようになり、古代国家の成立へと進んでいくのでした。
白石先生の本は、よく読ませていただいているので特に驚く事もなかったのですが、ひとつだけ・・・。
古事記、日本書紀、延喜式の陵墓の記述をピックアップしていくと、安閑、宣化天皇が日本で始めての夫婦合葬であったことがわかります。安閑、宣化天皇は継体天皇と尾張の目子媛(めのこひめ)の間の皇子なのですが・・・。
夫婦合葬は中国、朝鮮半島ではあたりまえに行われていた事ですが、この当時の倭人達には無いことで、妻はお里の地に葬られる事になっていました。
欽明天皇が堅塩媛と合葬されているのは、蘇我馬子による蘇我氏と天皇家の結びつきのデモンストレーションだし、ずっと後の天武、持統天皇の合葬は「血のつながり」「同族意識」で結ばれたものとして倭人の間でもあったことだし、安閑、宣化天皇の夫婦合葬は不思議ですね。
ヲホド王の御一家は、よほど大陸の文化の影響を受けた人たちだったとか、もしかしてそのものずばり・・・・。
そうそう、今城塚古墳は石棺の欠片から棺が3つだったのではないかと言うお話もあったりして。もしかして、継体天皇と三尾の二人の御妃と共に眠っていらっしゃったのでしょうか。うーん、やっぱり継体天皇は謎の天皇です。















