石渡信一郎さんでしたか、応神天皇の後、仁徳天皇から武烈天皇までいなかったと言った事が書いてあったのにも驚きました。
そりゃまぁ、古事記や日本書紀に書いてあることはその通りではないにしても、全部の天皇は実在しなかったかもしれないけど。
欠史八代の天皇だって、そのモデルになった人くらいは居たかもしれないと思いたいです。
時々見かける○○は居なかったって説、ちょっと寂しいです。
雄略天皇の宮殿、西に広がる可能性
桜井市脇本の脇本遺跡で、古代宮殿の一部とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡の柱穴が見つかった。県立橿原考古学研究所の調査で分かった。調査地の100メートル北東では84年に雄略天皇(在位5世紀後半ごろ)の宮殿「泊瀬(はつせ)朝倉宮(あさくらのみや)」とみられる遺構が見つかっている。今回の遺構は規模が似ており、宮殿が西に広がっていた可能性があるという。
国道の拡幅工事に先立ち、約350平方メートルを発掘した結果、3世紀末以降の柱穴(直径約30センチ)が7個、南北方向に2列になって出土した。南北端が調査地外のため正確な規模は分からないが、南北7メートル以上の建物跡になるとみられる。
84年の調査で5世紀後半の大規模な掘っ立て柱建物跡が出土し、泊瀬朝倉宮の可能性が指摘された。今回の遺構は柱穴の大きさや間隔、建物の向きがほぼ同じことから、同時期の可能性が高いという。
古代の宮殿は伝承地はあるものの、ほとんどが発掘調査がなされず詳しいことは分かっていない。雄略天皇は、古事記で「泊瀬朝倉宮に坐(おわ)して天下を治めた」と記載。宋書に記された、中国に使者を送った「倭(わ)の五王」のうちの武(ぶ)とされ、強大な権力を持っていた。同研究所の水野敏典・主任研究員は「柱穴の規模などから非常に強い勢力をうかがわせ、泊瀬朝倉宮の候補地にふさわしい」と話している。
◇
現地説明会はないが、調査報告が8月11日午後1時半、橿原市畝傍町の同研究所講堂である。聴講無料。 (筒井次郎)
●前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)の話 出土場所は、初瀬川の氾濫(はん・らん)でできた土地だと思っていたので意外だが、柱穴の大きさから見ると一連の遺構と考えられる。これまで泊瀬朝倉宮は、東西400メートル、南北200メートル程度と考えていたが、もう少し広い可能性がある。
(2007年07月21日 asahi.com)
雄略天皇って「有徳の天皇」であり「大悪の天皇」でもある二面性をもって書かれている人です。とても興味深い。
石渡さんの説によると、この大変興味深い天皇も居なかった事になってしまい、つまらないです。因みに石渡さんの説だと倭王、武は応神天皇なんですけどね。
いろいろ想像して自分の説が考えられるから古代史って楽しいんですけどね。
とりあえず泊瀬朝倉宮の候補地にふさわしい大きな規模の遺構が見つかって嬉しいです。
11日は退院して橿原まで、調査報告を聴講に行けると良いんだけど
最後まで読んでくださって、ありがとう










